親にとって残酷な言葉
死産を経験してから、お産に対する思いはより深くなりました。以前は自然分娩でも帝王切開でも、赤ちゃんが生まれてくるのは当たり前のことだと思っていた。でもそれはとてつもなく貴重な、尊いことだとわかりました。
だから出産に立ち会って無事に産声が上がると、「生まれてきてくれてありがとう」と心の底から思うのです。ただ、しばらくは死産した母親のケアにまで目を向ける勇気はありませんでした。
7年ほど前、身近な人と死別した悲しみを和らげるグリーフケアの研修に参加した同僚から、小さなベビー服の型紙をもらいました。でも、すぐに作ろうという気にはなれなかった。型紙に向き合おうとすると、どうしても当時の苦しみがフラッシュバックしてしまうんです。
亡くなった息子は、掌ふたつぶんぐらいの大きさでした。心拍が止まっていると告知された後、せめて服を着せてあげたいと近所の衣料品店に行ったけれど、最小で50センチの肌着しかない。仕方なくそれを買い、息子に着せようとしたらダボダボでした。長男の帽子をかぶせようとしても、体がすっぽり隠れてしまうので、それは枕元に納めて。出棺の時間も迫り、結局それしか持たせてあげられなかったのがずっと心に引っかかっていました。
またその時、「お人形さんの洋服があるじゃない」と人から言われて、ショックを受けたこともありました。いったい何を言っているの? 息子は人形じゃない。人です。相手は良かれと思って言ってくれたのかもしれませんが、私には残酷な言葉でした。
棺もそうです。私の時は「膿盆」という、手術で取った臓器を置くのに使う銀のお皿に載せられた息子が、血の付いたガーゼをばさっとかぶせられた状態で渡されました。赤ちゃんの、粘膜のように薄い皮膚がお皿に張り付いてしまい、夫と二人で泣きながら、膿盆を下から掌で温めて剥がした。その光景はしばらくのあいだ夢に出てきてうなされました。