老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

〝そういうことじゃなくて〟
 しかし充分譲歩したつもりの提案をすげなく否定されると、達也は益々もって涼音がなにに拘泥しているのかが理解できなくなった。
〝私は、自分が改姓するのと同じだけ、達也さんが改姓するのも嫌なの。結婚するために、どうしてどちらかが、自分の慣れ親しんできた姓名(なまえ)を捨てなきゃいけないんだろう。そんなのって、どう考えてもおかしいよ〟
 涼音の口調は真剣だったけれど、達也にしてみれば、お手上げだ。
 世界中で実践している選択的夫婦別姓を、令和の時代になっても実現できない日本の制度は、国際的に見ても相当時代錯誤(アナクロニズム)なのだろう。それは達也とて、涼音の憤懣に同意する。
 とは言え、二人で憤り合ったところで、国の法律がすぐさま変わるわけがない。
「嫌だ」「おかしい」と繰り返す涼音の態度は、現状どうにもできない事実の前で、ぐずぐずと駄々をこねている子どものようにしか思えなかった。
〝だったら、俺たち結婚できないじゃない〟
 最終的には、そう答えるしかなかった。
 それ以降、二人の間はなんとなくぎくしゃくしている。
 開店準備こそ協力し合って進めているが、婚姻届の申請については、いつしか互いに口にしなくなった。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 鎌倉街道を外れ、首都高に続く大きな道路に入りつつ、達也は眉間のしわを深くする。
 忙しさにかまけ、婚姻手続きを涼音一人に任せていたのがいけなかったのだろうか。或いは、両親の顔合わせの席で、親父が散々好き勝手なことを言ったせいだろうか。
 婚姻に同意していた涼音が今更こんなことを言い出したのは、恐らく、結婚自体に不安を覚えているからなのだろう。
 ただのマリッジブルーならいいのだけれど……。
 大型量販店ばかりが立ち並び、急に味気なくなった車窓の風景を眺めつつ、達也は口元を引き締めた。
 それとも、まさか。
 ふいに、胸に黒い影が差す。
 涼音が突然婚姻手続きを渋り出した原因は、自分の障碍にあるのでは。
 達也は特にローマ字に、強い識字困難がある。日本語の読み書きにはそれほど大きな支障がないので、ほとんどの場合、人に知られることはなかったが、どれだけ努力しても克服できないという厳しい現実は、達也にとって長年のコンプレックスでもあった。
 ずっと封じ込めていた疑念が心の奥底から湧き上がりそうになり、達也は慌てて頭(かぶり)を振る。
 涼音に限って、そんなことがあるわけない。
〝そういうの、隠さないほうがいいですよ〟
 桜山ホテルのパントリーの片隅で、真っ直ぐに自分を見つめてきた涼音の面影が甦る。
〝っていうか、隠す必要なんか、まったくないと思います〟
 絶句した達也の前で、涼音はきっぱりとそう言った。
 最初こそ、胸の裡に土足で踏み込まれたような怒りを覚えたが、涼音からの指摘がなければ、達也は自分の障碍と正面から向き合うことができなかった。
 以来、涼音はずっと、陰日向にわたり、達也を支えてくれた。
 その涼音に対し、こんな疑念を抱くのは失礼だ。
 頭ではそう理解しつつも、心の片隅で、打ち消し切れないもう一つの声が響く。
 どんなに通じているつもりでも、所詮、他人(ひと)の気持ちは分からない。
 共に飴細工(ピエスモンテ)の国際コンクールに出よう――。同じ目標を掲げて切磋琢磨してきたかつての同僚が、いざ、コンクールに出場する段となると、「グレーゾーン」「多様性(ダイバーシティー)枠採用」と自分の陰口をたたいていたことを思い出し、達也の胸の奥が重くなる。
 識字障碍は、製菓の腕に関係ない。
 そう言って、わだかまりなく接してくれていた過去があるだけに、突然の掌返しがきつかった。
 自分はまたしても、あんな思いを味わうことになるのだろうか。
 まさか、と思いつつ、一度考え始めてしまうと、嫌な疑念が次々に押し寄せる。
 なにがきっかけで、人は心を変えるか分からない。親しかった同僚が、五つ星ホテルのスー・シェフの地位をかけたコンクールを前に、態度を一変させたように。
 たとえば涼音が、生まれてくる子どもへの遺伝を懸念しているとしたら。
 子どもを持つかどうかについては、まだ、深く話し合ったことはない。今はまだ、二人ともパティスリーの開店準備で手一杯で、そこまでは考えることができなかった。
 だが、そう信じているのは男性の自分だけで、出産適齢期のある女性は違うのかも分からない。
 自身のためではなく、子どものためなら、女性は心を鬼にすることもあるのでは……?
 そう思いついた途端、達也の背筋に本当に冷たい汗が流れた。
 大きな道を行くうちに、徐々に交通量が増えてきて、達也は意識を集中してステアリングを握り直す。
 やめよう。
 これ以上、嫌な想像をしていても仕方がない。
 やはり、もう一度、結婚について涼音としっかり話し合うべきだろう。このところ、涼音もピーアールの仕事が忙しく、すれ違いが続いていることも問題だ。
 折しも涼音の誕生日が近い。
 改めて二人でゆっくり過ごす時間を作るべきだと、達也は運転席で背筋を正した。

 オーブンをあけ、鉄板を取り出す。
 以前はフランス人マダムの料理教室だった広めの厨房に、甘い香りが漂った。
 全体の焼き色と、表面がしっかりカラメリゼされていることを確認し、達也は自然と満足の笑みを浮かべた。
 パリッとした表面、こんがりとした焼き色。立ち上る濃厚なバターの香り。
 上出来だ。
 達也は軽く頷く。年季は入っているが、マダムのオーブンはなかなかの優れものだ。
 大きなオーブンが備わった厨房も、この物件を選んだ決め手の一つだった。店先は内装工事が入っているが、厨房は今後も居抜きのまま使うつもりでいる。
 今日は、涼音の三十三回目の誕生日。
 達也は仕事を早く切り上げ、腕によりをかけて、大きなクイニーアマンを焼いた。
 クイニーアマンはフランスのブルターニュ地方発祥のお菓子で、日本では菓子パンとして売られていることもあるが、本場ではれっきとした伝統菓子だ。ブルターニュの言葉で、クイニーはケーキ、アマンはバター。要するに、バターケーキという意味だ。
 クイニーアマンの最大の特徴は、有塩バターをとにかく大量に使うところにある。
 このクイニーアマンの誕生に関しては、ちょっとユニークなエピソードが残されている。
 ブルターニュは昔から酪農が盛んな地域だが、クイニーアマンが生まれた一八六〇年代は小麦が不足していた。そこで、あるパン屋の店主が、土地の豊富なバターで小麦粉の不足を補おうと考えつき、小麦粉四百グラム、バター三百グラム、砂糖三百グラムという、通常のパンではありえない配分の生地を作った。誰もがそれを失敗だと思ったが、店主が試しに焼いてみたところ、実に美味しいケーキが完成したという。
〝パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない〟というフレーズは、実際にはマリー・アントワネットが言ったものではないそうだが、特別階級の高慢と蒙昧を表すのに、今でもよく使われる。ところが、一介のパン屋の店主が、〝小麦(パン)がなければ、お菓子(ケーキ)を作ればいいじゃない〟を、期せずして実践してしまったのだ。
 一人の店主の大胆にして臨機応変な対応が常識を覆し、結果、誕生したケーキがその地方の代表的な伝統菓子となっていくのだから、なかなか興味深いと達也は思う。
 本来、クイニーアマンはプレーンだけれど、今回、達也は林檎のコンポートのフィリングをたっぷりと詰めてみた。使ったのは、先日東京郊外で直接仕入れてきた酸味の強い林檎だ。
 秀夫の推薦通り、火を入れると小振りの林檎たちは素晴らしい味わいになった。とろりとした舌触りも申し分なく、甘酸っぱい爽やかなフィリングは、少し塩気のある生地やカラメルと馴染み、間違いなく極上の美味しさとなるだろう。
 焼きたてのクイニーアマンを網に移し、達也は壁の掛け時計に眼をやる。
 午後七時。そろそろ、製菓雑誌との打ち合わせに出かけた涼音が帰ってくる頃合いだ。
 涼音はこのサプライズケーキを喜んでくれるだろうか。
 達也の胸の鼓動が、少しだけ速くなった。
 仕入れたばかりの林檎で、新しいケーキを作ってみたいという気持ちもあったが、達也が涼音の誕生日にクイニーアマンを焼いたのには、もう一つ理由がある。
 誕生と同時に瞬く間に大流行したクイニーアマンは、やがて、ブルターニュ地方で男性が女性に求婚するときに贈られる定番菓子にもなっていったのだ。
 結婚に躊躇し始めているように思われる涼音に、達也はもう一度、改めてプロポーズしようと考えていた。
 さて、と……。
 網に載せたクイニーアマンをキッチンテーブルに置き、今度はガスレンジの前に立つ。
 クイニーアマンが冷めるのを待つ間に、料理の仕上げに入ろう。
 今日は、魚介をたっぷり入れたブイヤベースを中心に、アーティチョークのハーブサラダも用意している。
 サラダにかけるパルメザンチーズを準備していると、ふいに振動音が響いた。キッチンテーブルの上に置いたスマートフォンが震えている。
 それが郷里の母からの着信だと気づき、達也は一瞬、眉を寄せる。
 面倒さが先に立ったが、無視するわけにもいかない。パルメザンチーズを冷蔵庫に戻し、達也はスマートフォンを手に取った。
 

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