老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。


 一体、なにが起きているのか。
 厨房の本棚で製菓用の材料図鑑を探しながらも、達也の思考は千々に乱れる。
 落ち着かなくてはいけない。まずは順を追って、頭を整理するべきだ。
 しかし、そう思った瞬間、こめかみのあたりがずきりと痛む。酷い二日酔いだった。
 見つけた図鑑をテーブルに置き、達也はとりあえず、冷蔵庫で冷やしておいたハーブウォーターをグラスに注いだ。一息に飲み干せば、レモングラスとスペアミントの香りが鼻に抜け、少しだけ頭がはっきりする。
 昨夜、秀夫とさんざんに酒を飲み、終電で家に帰ったところ、意外なことに涼音が実家から戻っていた。涼音はなにかを盛んに話したがっていたが、自分は到底それを聞けるような状態ではなかった。
〝スーズーネー〟
 へべれけになりながら、久しぶりに顔を合わせた涼音におおいかぶさり、
〝ちょっと、達也さん、達也さん、しっかりして。もう、いい加減にして、達也っ!〟
 と、耳元で怒鳴られたところまでは記憶がある。出会ってから、二度目の呼び捨てだった。
 いや、そんなことはどうでもいい。
 鏡のように磨かれたシンクに映っている自分の姿を、達也はぼんやりと眺める。
 そこへ、トレイを持った涼音が入ってきた。
「達也さん、お客さんをあんまりお待たせしないで」
 二杯目の紅茶を用意しながら、じろりとこちらをにらみつける。
「いや、もう少し早く起こしてくれたら……」
「何度も起こしたけど、起きなかっただけでしょ」
「っていうか、事前にちゃんと説明してくれていたら……」
「だから、昨日、待ってたでしょ。説明しようにも、話を聞く状態じゃなかったのは、そっちじゃないの」
 ラウンジ仕込みの手際で新しい紅茶を用意しながら、涼音が鼻を鳴らした。
「昨夜、何時間待ったと思ってるの? 仕事だと思ったから電話もメールも入れなかったのに。誰と飲んでたのか知らないけど、達也さんがあんなにだらしなく酔っぱらう人だとは思わなかった」
 そう言われると、返す言葉もない。
 今朝も、涼音は何度となく自分を起こそうとしたのだろう。そのたび、振り払ってベッドの奥にもぐりこんだ覚えがそこはかとなく残っている。
 ようやく眼が覚めたのは、顧客がくるぎりぎりの時刻だった。
 既に涼音が一階に下りていることに気づき、慌てて身支度をして店舗スペースへ向かったのだ。
「しかし、まさかなぁ……」
 達也が呟くと、涼音がティーカップを温めていた手をとめた。
「そんなにおかしなこと? 事情を知ってたら、断った?」
「それはない」
 即座に首を横に振る。
 その瞬間、二人の間のどこかぎこちなかった空気が、ふっと和らいだ気がした。
「俺、アルコール臭くないか。マスクしたほうがいいかな」
 口元に掌をかざし、ハーッと息を吐いてみる。幸いアルコール臭はなく、先ほど飲んだハーブウォーターの香りがした。
「大丈夫。今準備してるスパイスティーは、酔い覚ましにもいいから。早くお客様のところへいって」
 涼音がポットに茶葉を入れると、クローブとシナモンの甘い香りが厨房に漂った。達也は材料図鑑を手に取り、店舗スペースへ戻る。
 空のショーケースが並ぶ店舗の隣に、ゆくゆくは喫茶ラウンジにする予定の部屋があり、真ん中に設えられた大きなテーブルに、初めてケーキを予約してくれた顧客が並んで座っていた。
 内装工事はまだ完全には終わっていないが、窓からは明るい日差しが降り注ぎ、テーブルの上にムクロジの木漏れ日が散っている。
「お待たせしました。こちらを見ていただきながらお話ししたほうが、イメージが湧くかもしれません」
 達也は、二人の前に材料図鑑を置いた。
「わあ、製菓の材料って、こんなに種類があるんですね」
 図鑑の分厚さに眼を見張ったのは、ラウンジで出会ったときと同様、パンツスーツに身を包んだ秀夫の娘、阿川晴海(あがわはるみ)だった。
 ショートカットの晴海の隣に、栗色の髪を肩まで垂らしたおっとりとした雰囲気の女性が座っている。
〝ご無沙汰しております〟
 出会い頭に晴海に頭を下げられ、昨夜、彼女の父親の秀夫と飲んでいただけに、達也はその偶然に少し驚いた。
 一刹那、反応が遅れてしまい、先に接客に当たっていた涼音から露骨ににらまれた。
〝以前、桜山ホテルのラウンジでアフタヌーンティーを食べたとき、飛鳥井シェフの特製菓子(スペシャリテ)が本当に美味しくて。柚子ジャムのザッハトルテ、最高でした〟
 そう続けられたときは、自分のスペシャリテを気に入った晴海が、親しい友人の結婚式用に、ウエディングケーキを注文しにきてくれたのかと考えた。
〝だから、私たちのためのウエディングケーキは、絶対、飛鳥井シェフにお願いしたいって、ずっと思ってたんです〟
 しかし、〝ね〟と二人が幸せそうに顔を見合わせた瞬間、半分霞がかかったようだった頭が一気にはっきりとした。
 同時に、秀夫が散々荒れていたわけを悟る。
〝問題は、その娘だよ!〟
 昨夜の秀夫の大声が、すぐ耳元で響いた気がした。
 もちろん自分には、同性パートナーを持つ人たちへの偏見はない。それでも、「こればっかりは、さすがにうまく説明ができない」と、苦悶の表情を浮かべていた秀夫の様子を思い返すと、正直、狼狽が先に立った。
 そこで、どんなウエディングケーキにするのか、まずは素材を見たほうがいいだろうと理由をつけて、一旦は厨房に引っ込んだのだった。
「ゆきちゃんは、ナッツ系が好きだよね」
 晴海が傍らの女性に呼びかける。
「すごい……。アーモンドやクルミだけでも、産地によってこんなに違う種類があるんだ」
「ピスタチオやマカダミアナッツも美味しそう」
「ねえ、はるちゃん、花びらの砂糖漬けなんていうのもあるよ」 
 仲睦まじく材料図鑑をのぞきこんでいる二人を見るうちに、達也の心も徐々に落ち着きを取り戻してくる。
〝事情を知ってたら、断った?〟
 先ほど、厨房で涼音に尋ねられたとき、達也は即座に首を横に振った。そこに躊躇はなかった。そして、それがすべてだと思った。
 彼女たちは、自分のケーキを特別なアニバーサリーに選んでくれた、大切なゲストだ。
「アレルギーや苦手な食材がありましたら、ぜひお申しつけください」
 落ち着かなかった気持ちが消え去り、達也はごく自然に笑みを浮かべることができた。
 彼女たちが興味を示した素材のページに付箋を貼ったりしていると、涼音がポットをトレイに載せて戻ってきた。
 新しい紅茶が振る舞われ、スパイシーな甘い香りが店内に広がる。
「この紅茶、すごく美味しい!」
 一口飲んだ晴海が眼を丸くした。
「よかった。蘭の香りがする中国産の紅茶に、クローブとシナモンを加えたオリジナルブレンドなんです」
 達也の隣の席に着きながら、涼音が柔らかく微笑む。
「それで、いかがですか。イメージは固まりそうですか」
「なんだか、あまりに色々な選択肢があって、却って迷っちゃって……」
「ウエディングケーキは、アニバーサリーケーキの中でも、本当に特別なものですものね」
 誕生日や結婚記念日は毎年やってくるが、結婚は、基本、人生に何回もある節目ではない。 その日に食べるケーキは、誰にとっても、最高の思い出として心に留められるべきだ。
 涼音と晴海の会話を聞きながら、達也は改めてそう考えた。
「同性婚が認められていない日本では、私たちは正式に結婚できるわけではないんですけど……」
 晴海が少しだけ苦しそうに眉を寄せる。
「でも、今はパートナーシップ制度が導入されている自治体も少しずつ増えてるんですよ」
 傍らの女性、有紀(ゆき)が、助け舟を出すように口をはさんだ。
「だから私たち、そういう地域に住居を構えて、来年から新生活を始めようと思ってるんです。ね、はるちゃん」
 有紀に微笑みかけられ、晴海も明るい表情を取り戻した。
「そうですね。国が認めてくれなくても、草の根的な動きがないわけではないので、まずは私たちがそれを根付かせていくことが大切かなって、考えているんです。そこで、その節目に、ごく親しい人たちを呼んで、小さな結婚式を開きたいと計画してるんです」
 つまり、今回発注のあったウエディングケーキは、そこで食べるためのものということか。
「法的に認められなくても、好きな人と一緒に新しい人生を始める私たちのことを、親しい人たちには知ってもらいたいんです」
 有紀が達也と涼音を真っ直ぐに見る。晴海のパートナーは、おっとりとした見かけとは裏腹に、思いのほかしっかりとした女性のようだった。
 好きな人と一緒に新しい人生を始める――
 そのシンプルなマインドには、共感しか覚えない。
 だが。
「このこと、須藤さん……お父さんには……」
 ためらいはあったが、達也はどうしても晴海に聞かずにはいられなかった。
 瞬間、晴海の頬が軽く引きつる。
「いえ」
 苦い笑みを浮かべ、晴海が首を横に振った。
「ゆきちゃんのご両親や、母はまだ理解があるんですが、父はとてもとても」
 達也と涼音を交互に見やりながら、溜め息交じりに晴海は続ける。
「飛鳥井シェフと遠山さんはご存じだと思いますが、父は本当に古いタイプの人間なんです。悪気はないのかもしれませんが、妻である母のことも、娘である私のことも、自分のために存在していると思い込んでいるようなところがありましたから」
 晴海の視線が下を向いた。
「離婚後も大変で……。ようやく最近、普通に話せるようになってきたんですけどね。また、険悪な状態に逆戻りです。父は母が私を甘やかしたから、私が〝好き勝手なこと〟を言い出したと思っているようです。確かに私は、ゆきちゃんに出会うまで、自分のセクシュアリティに気づいていませんでしたから。父にとっては、突然の〝我儘〟にしか思えないのかもしれません」
 うつむく晴海の手に、有紀がそっと自分の掌を重ねる。
「本当なら、父にも参加してほしいですが、それはあきらめています。理解できない人に、理解を強いることはできませんので」
 晴海が黙ると、店の中がしんとした。
 木漏れ日が揺れ、紅茶のスパイシーな香りだけが周囲を漂う。傍らの涼音も、じっと考え込んでいるようだった。
 ここで下手な慰めを口にすることなど、誰にもできやしない。
 LGBTQという言葉が、どれだけ盛んにメディアで使われるようになっても、人の気持ちはそう簡単に変わるものではない。ましてやそれが親や子であれば、一層割り切れないものがあるのだろう。
 自分ですら、父との間には常に心の距離を感じているのだから。
 ままならない。面倒臭い。
 けれど、すっかり塩垂れていた秀夫の様子を思い返すと、達也の中になにか込み上げてくるものがあった。
「あの」
 気がつくと、勝手に口が動いていた。
「結婚式を開く店は、もう決められているんですか」
「いえ」
 晴海が顔を上げて、首を横に振る。
「それでは、ここで開いてみてはどうでしょう。来年なら、この部屋も喫茶ラウンジとしてもう少し形になっていると思いますし」
「え? いいんですか」
「はい。食事はキッシュやサラダ等の総菜(デリ)が中心になりますが」
 深く頷き、達也は続けた。
「ウエディングケーキの設置も、出張より店内のほうが、凝ったものができますので」
 当初は、この店をそんなふうに使うつもりはなかった。あくまでパティスリーが中心で、喫茶スペースは当面補助的なサービスにするつもりでいた。
 だけど――。
「それ、すごくいい考えだと思います!」
 傍らの涼音が両掌を合わせた。
「ぜひ、この店で結婚式を開いてください」
 言いながら、達也にもにっこりと笑いかける。涼音の心底嬉しそうな笑みを、久々に見たような気がした。
「ケーキのイメージですが、たとえば、お二人の思い出に関するものから作ってみるのはいかがでしょう。色ですとか、香りですとか……」
 俄然張り切り出した涼音が、テーブルの上に身を乗り出す。
「私がアンケートを作成してメールでお送りしますので、まずはそれにお答えいただき、その結果をもとに、もう一度打ち合わせをするのはどうでしょう。せっかくですから、世界で一つの、最高のウエディングケーキを作りませんか」
「すてき!」「嬉しいです!」
 涼音の提案に、晴海と有紀がぱっと顔を輝かせた。晴海の表情からも、物憂げな陰りがすっかり消えている。
「次回の打ち合わせ、楽しみにしています」
 何度も頭を下げて店を出ていく二人を、達也と涼音は肩を並べて見送った。

〈前回はこちら〉

 

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