老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

〝僕はね、正直なことを言うと、嫌だったんだよ。ケーキバイキングだとか、デザートビュッフェだとか、なにより、そこに群がる女性たちが〟
 かつて、秀夫がそう語ったことを、達也は思い出した。
 平成はIT革命の時代であると同時に、スイーツ革命の時代だったとも言われる。男女雇用機会均等法の改正で、あらゆる職場に「女性総合職」が誕生したことにより、それまでショートケーキやモンブランといった定番菓子ばかりだった洋菓子の世界に、ティラミス、クレームブリュレ、パンナコッタ、カヌレ等のヨーロッパのお菓子が一気に登場した。パティシエブームが起こったのもこの時期だ。
 秀夫は、突如経済力を持った小生意気な女たちに、自分の菓子を食べ散らかされたくなかったのだと本音を吐露していた。
〝でも、このラウンジのゲストを見るうちに、段々、気持ちが変わっていったんだ〟
 居酒屋で騒ぐ男たちには寛大でいられたのに、ケーキバイキングで憂さを晴らす女性たちのことは許せなかった。
〝よく考えれば、同じことなのにねぇ〟
 桜山ホテルのラウンジで、アフタヌーンティーを囲んでくつろぐゲストを見るうちに、自分はそんな時間を、妻にも娘にも一度もプレゼントしたことがなかったのだと秀夫は悔いていた。
 娘に間に入ってもらい、ようやく最近は元妻とも普通に話せるようになったと、あのとき、秀夫は穏やかな笑みを浮かべていたはずだが。
 結局のところ、秀夫の女性嫌悪(ミソジニー)は未だ健在なのだろうか。
 達也が答えあぐねていると、冷酒を飲み干した秀夫はすぐさまお代わりを頼んだ。
「飛鳥井くんがホテルを去って、山崎さんがシェフになってから、あの二人の間には、元々深い溝があったんだよ。そこを、遠山さんがうまく取り持ってくれていたから、なんとかなっていただけで。遠山さんが抜けた穴は、大きいよ」
 涼音の話題が出て、達也は微かに口元を引き締める。
「ところで、遠山さんは元気なの? あ、今は遠山さんじゃなくて、彼女も飛鳥井さんか。もう籍は入れたんだよね?」
 痛いところをつかれ、思わず達也もコップ酒をあおった。
 籍は入れるのではなく、作るもの。
 一々涼音が訂正することを思い返し、なぜだか溜め息が出る。
「どうした、溜め息なんかついちゃって」
 高架を走る電車の振動で、テーブルの上のコップや皿がカタカタと揺れた。すぐ傍のテーブルの男たちが大声でゲラゲラと笑う。真っ赤な顔をした脂ぎったオヤジたちの中に、自分の父親が交じっているような気がした。
〝お父さんが、毎日大変だよ。一体どうなってるんだって、やいのやいの言い始めて……〟
 電話での母の言葉が耳の奥に甦り、達也は段々むしゃくしゃしてくる。
 本当に面倒臭い。
「実は今、ちょっと揉めてるんです」
 涼音が夫婦同姓を理由に、婚姻届を出すことを渋り始めていることをちらりと話した瞬間、だんっと大きな音がした。秀夫が突然、テーブルをたたいたのだ。
「それは遠山さんがおかしい!」
 驚く達也の前で、秀夫がきっぱりと言い放つ。
「結婚したら、女性が改姓するのなんて当たり前の話じゃないか。なにを今更、そんなことでごね出してるんだ」
「いやあ、それがどうも当たり前でもないらしくて」
 夫婦同姓を法律で義務づけているのが世界で日本だけらしいと説明しても、秀夫の憤懣は収まらなかった。
「よその国のことは知らないけど、日本ではそうなんだから仕方ないじゃないの。それに、僕はいいと思うよ。同姓になったほうが、家族としての一体感ってものが出るし」
 勢い込んで告げながら、
「まあ、僕は一体感を出せなくて、結局、失敗しちゃったんだけど」
 と、最後のほうはぶつぶつと呟く。
「だけど、好きな男の苗字になりたいっていう女性だって、この世の中には一杯いるだろ。いや、そっちのほうが主流なはずだ」
 お代わりの冷酒がくると、秀夫は再び勢いを取り戻した。
「飛鳥井くん。君、溜め息なんかついてないで、もっとちゃんと怒ったほうがいいよ。大体、飛鳥井姓になりたくないなんてごね始めるのは、君に対して随分失礼な話じゃないか。僕は、遠山さんはいい子だと思っていたんだけどね。まったくもって呆れたもんだ」
「飛鳥井姓になりたくないんじゃなくて、自分の名前を失うのが嫌なんだって、本人は言ってましたけど」
 あまりに秀夫が憤慨するので、却って達也は涼音をかばってしまう。
「屋号を飛鳥井にすることには彼女も賛成してるので、だったら、僕が改姓してもいいんじゃないかって、一時は思ったんですけどね……」
「いや、それは絶対にやめたほうがいい」
 達也が言い終わらないうちに、秀夫が強く首を横に振った。
「この日本社会では、余程のことがない限り、男の改姓は不利に働く。なんだかんだで、〝婿〟は一段下に見られるから」
 男の改姓が婿養子になることとイコールではないことは、達也も今では理解しているつもりだが、秀夫が言わんとしていることも無視はできないと感じる。
「それにさ、飛鳥井くんは、今後もグローバルに活躍していく可能性があるだろ? だったら、改姓は絶対に勧めないね」
 しかし、次に秀夫が口にしたのは、これまで達也が考えたこともないことだった。
「僕の欧州修業時代のパティシエ仲間に、かみさんの苗字に改姓しているやつがいてさ。普段は旧姓を名乗ってるから、僕も詳しい事情は聞かなかったけど、そいつが毎回、海外のホテルにチェックインするとき、通称とパスポートの名前が違うっていうんで揉めるのよ。店の口利きでホテルを予約すると、通称で伝わっちゃってることが多いからね。あれは面倒だった。今はパスポートに旧姓も記載できるらしいけど、どっちにせよ、コンクールに出るときとかは、通称の旧姓で登録するか、改姓後の本名で登録するかで、無駄な手続きをしなきゃいけなくなる」
「なるほど……」
 冷酒を注いでもらいながら、達也はうなる。
 通称で旧姓を使えば、改姓してもたいした違いはないと思っていたが、そうした事態は想定したことがなかった。 
「おまけに身分証明が必要なコンクールだと、もっと厄介だ。改姓後の本名で登録したら、旧姓時代の実績を棒に振ることになりかねない。君はヨーロッパの製菓コンクールで入賞したこともあるんだから、タツヤ・アスカイの名前は、絶対に捨てちゃいけないよ」
 名前が変わることによって、それまでのキャリアが同一人物のものだと認識されない場合が起こりうるのだと聞かされて、達也は初めて改姓のリスクに気がついた。
 特に、自分にはローマ字の識字障碍がある。海外で問題があったとき、一人で書類の手続きをするのは困難だ。
「遠山さんも、自分の名前を失うのが嫌だなんて、よくそんな生意気なことが言えたものだよ。遠山さんの名前と、飛鳥井くんの名前じゃ、社会的な意味が全然違うじゃないか」
 コップ酒をあおり、秀夫はハーッとアルコール臭い息を吐いた。
「今の世の中が甘いから、女がどんどんつけ上がって、勝手放題言い始めるんだ。なんでもかんでも平等なわけがないだろう。なにが性差だ。そんなもの、あって当たり前じゃないか。それが証拠に、我々男は逆立ちしたって子どもは産めない。権利ばかり主張する女に限って、この一番大事な女性の役割を果たしていない。それができなくて、なにが自己実現だ。笑わせるな。少子化がとまらないのは、女どもが我儘になりすぎたせいだ。このまま、勝手な女たちの主張を真に受けていたら、世の中は滅茶苦茶になっちゃうよ。まったく、女ってやつは本当に、どこまでいっても自分本位だな」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
 秀夫があまりにあしざまに女性全般を罵り続けるので、さすがに達也は訝しさを覚える。 
「須藤さん、なにかあったんですか」
 達也が尋ねると、秀夫が憮然としてテーブルに肘をついた。しばらく黙った後、重たげに口を開く。
「いやあ、実はねぇ……。俺も、元家族のことで、正直参ってるんだ」
 いつの間にか、秀夫の主語が、僕から俺に変わっていた。
「娘さんのおかげで、普通に交流できるようになったんじゃないんですか?」
「問題は、その娘だよ!」
 秀夫の声が再び大きくなる。
「いや、確かに俺にも悪いところはあったんだろうが、それでも、やっぱり男親がいないと家庭は駄目だ。女親なんかに任せていたから、娘が常識外れなことを言うようになったんだ」
「娘さんに、なにかあったんですか?」
 イヤーエンドアフタヌーンティーとフェアウェルアフタヌーンティーで顔を合わせた秀夫の娘は、パンツスーツを颯爽と着こなす、いかにも仕事ができそうな女性だった。
「それがねぇ」
 眉間に深いしわを寄せ、秀夫が項垂れる。
「いやあ、こればっかりは、さすがにうまく説明ができない」
 急に秀夫が塩垂れた様子になったので、達也もそれ以上聞き出すのはやめて、代わりに酒を注いだ。
 どうやら、秀夫の「元家族」に、なにやら問題が起きたらしい。
「飛鳥井くん」
 達也が秀夫のコップに酒を注ぎ終わると、ぽんと肩をたたかれた。
「なんだかんだ言って、俺は家庭ではずっと二対一で孤独だったからな。妻と徒党を組んで、好き勝手言ってる娘じゃなくて、君みたいな息子がいたらよかったよ」
 それは、どうだろう。
 すっかり赤くなった秀夫の顔を見返しながら、達也は胸の奥底で密かに思う。
 せっかく自分の店を持つなら、菓子店なんかじゃなくて、レストランにすればいい――。
 両家の顔合わせで、父親から言われた言葉が、まだどこかに引っかかっている。
 秀夫も酔っぱらって感傷的になり、〝たられば〟を言っているだけだろうが、親と子というのは、それほど単純に互いを理解し合えるわけではない。それは、同性であっても異性であっても、結局は同じに違いない。
「今夜は飲みましょう」
 秀夫も自分も、どうせ家で待っている人などいないのだ。この際、とことん酔っぱらってやろうと、達也は店員に向けて手を上げた。

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