老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 その日、仕事を終えると、達也は新橋にきていた。スマートフォンの地図アプリで、須藤秀夫との約束の店の位置を確認する。
 指定された店は、駅からほど近いガード下にあった。暖簾をくぐると、もくもくと煙が立ち込めている。
「らっしゃーい!」
 ねじり鉢巻きで鶏(とり)を焼く大将が、威勢のいい声をあげた。
 にぎわう店内を見回せば、隅のテーブル席に座った秀夫が煙の向こうから手招きしている。
「飛鳥井くん、こっちこっち」
 焼き鳥を肴に、ビールのジョッキを傾けているワイシャツ姿の男たちをかき分けるようにして、達也は店の奥に向かった。
「すみません、須藤さん。遅くなりまして」
「いや、こっちも今きたばっかり。注文もまだだから」
 達也が席に着くなり、すぐに冷えたおしぼりが届けられた。
 とりあえず生ビールと枝豆を注文し、後は常連の秀夫のお勧めに任せることにした。
「ここはね、炭火で焼いた鶏がうまいんだよ。もも肉のねぎま、皮、ぼんじり、せせり、だきみ、肝のタレ塩を二本ずつ。それから、銀杏とエノキの肉巻きも二本ずつね」
 秀夫が慣れた調子で壁に貼られたメニューを読み上げるのを聞きながら、達也は改めて店内を見回した。
 さすがは新橋のガード下。
 仕事帰りのサラリーマンたちで、店内は一杯だ。女性やファミリー層は見事にいない。
 カウンターの奥では、大将をはじめ、ねじり鉢巻きをした数人の男たちが、炭火の上で黙々と鶏を焼いている。時折鶏の油が滴り、じゅわっと音を立てて赤い炎が上がった。
 高架を電車が通るたびに、店全体ががたがたと揺れる。
「いいでしょう、新橋。これぞ、働く男の街だよね」
 おしぼりで顔までぬぐいつつ、秀夫がにやりと笑った。
「早く上がれる日は、僕はいつも新橋なんだ。家も近いし、桜山ホテルからも電車一本でこられるし」
 確かに、常にホテルのお洒落なラウンジにいると、こういう男臭い場所が懐かしくなるのかもしれない。
 早速、生ビールで乾杯し、達也もシャツの首元のボタンを一つ外した。
「悪かったね。開店準備で忙しいときに呼び出して」
「いえ、僕も、久しぶりに須藤さんにお会いしたかったので……」
 林檎農家をはじめ、秀夫にはなにかと仕入れの相談に乗ってもらっている。達也も、一度きちんと御礼を伝えたいと思っていたところだった。
 それにたまには新橋のガード下で、男二人で酒を飲むのも悪くない。
 特に、今の達也には、こうした息抜きが必要だ。
〝やっぱり、俺に障碍があるから……〟
 うっかり、隠し持っていた懸念を口に出した最悪の誕生日以来、涼音が実家に戻ってしまった。もう五日ほど、達也は一人で新居に寝泊まりしている。
 無論、まったく連絡を取っていないわけではない。内装工事の立ち合いや、開店準備に関する案件では、メールで頻繁にやりとりしている。但し、涼音からのメールには、いつも実務的なことしか書かれていなかった。
 一昨日、涼音から、早くも「アニバーサリーケーキ」の予約が入ったという連絡がきた。本来なら喜ばしいことだが、そのメールですら淡々とした文面だった。別段嫌味な文面ではないものの、感情が伴っていない分、却って涼音がまだ怒っていることがひしひしと伝わってきた。
 明日の午後、その顧客との打ち合わせが入っている。涼音とも約一週間ぶりに直接顔を合わせることになるわけだが、自然に振る舞えるだろうか。
 アニバーサリーケーキか……。
 達也は内心苦い溜め息をついた。
 しかも、今回の注文は、ウエディングケーキだという。
 自分たちの結婚が暗礁に乗りかけているというときに、ウエディングケーキを作ることになろうとは。
 涼音の記念日(アニバーサリー)のために用意したクイニーアマンは、今も冷凍庫で眠っている。
「どうしたの? 浮かない顔して。なんか嫌なことでもあった?」
「いえ」
 憂鬱な思いを振り払うように、達也は冷えたビールを一気に半分まで飲み干した。
「おお、いい飲みっぷりだねぇ」
 途端に、秀夫が満面に笑みを浮かべる。
「須藤さんにご紹介いただいた小規模農家、面白いところばかりで、本当に助かってます。今日は御礼にご馳走させてください」
「いやいや、そんなことは気にしなくていいから、たまにはとことん飲もうよ」
 秀夫は心底嬉しそうに、ジョッキを掲げた。
 それからひとしきり、製菓の土台となる小麦粉談議などで盛り上がった。日本では製菓に使われる薄力粉は米国産のものが多いが、「灰分」と呼ばれるミネラル分が多いフランス産小麦粉の使用にこだわるシェフもいる。近年は、国産小麦粉も人気だ。
「やっぱり僕は、フランス産が好きだね。灰分が多いとふすまの臭みが出るけど、それもまた一つの味だよ。ブランデーやウイスキーみたいな度数の高い蒸留酒と組み合わせて、どっしりとしたものが作りたいね」
 古典菓子贔屓の秀夫らしい意見だった。
「僕は、最近、滋賀県産の小麦粉に注目しています。口どけがいいので、ハーブやフラワーウォーターと合わせるのも面白いかなと思っているんですよ」
「ぼそぼそしがちなスコーンとかにいいかもね。口に入れたら、ふわっとほどけて、すっと香る」
「そう! それです」
 小麦粉は品種によって、重くも軽くもなる。それをどんな素材と組み合わせるかは、すべてパティシエの感性と腕にかかっている。
 果物、洋酒、乳製品、ハーブ、ナッツ、チョコレート、香料、スパイス……。  
 製菓のための素材は、それこそ無限だ。互いに話題が尽きることはなかった。
「ところで、開店準備はどう? どんな店構えになりそうなの」
 秀夫に改めて尋ねられ、達也は涼音が準備している店用のSNSアカウントを開いた。
〝パティスリー飛鳥井(仮)〟の公式アカウントには、早くもたくさんのフォロワーがつき始めている。
「へえー、いい物件を見つけたねぇ。住宅用と店用の玄関が二つあって、ファサードも洒落てるじゃない」
 涼音が毎日更新している開店準備の投稿を、秀夫は楽しそうに追った。
「厨房のオーブンも、なかなかいいじゃないの」
「実は、フランス人マダムが開いていた料理教室の居抜き物件なんです」
「どうりで。店の前に、大きな木があるのがまたいいねぇ」
「ムクロジの保存樹だそうです」
「へえ、珍しいねぇ」
 あれこれ説明しているうちに、注文した料理が次々にやってきた。
「お、きたきた!」
 秀夫が明るい声をあげる。
「さあ、食おう」 
 秀夫に勧められ、達也は串を手にとった。炭火で焼いた鶏は、かりっとした表面をかじると肉汁がじゅわっと溢れ出る。
「うまいですねぇ」
「だろう? やっぱり炭火は違うよな」
 達也の感嘆に、秀夫が満足そうに頷いた。
「新橋の良さは質実剛健だよ。飾り気はないけど、うまい店がたくさんある。値段は庶民的だし、男同士で飲むには最適だ。ご婦人がやりがちな、焼き鳥を串から外すなんていう、しゃらくさい真似もしなくて済むしさ」
 そう言われれば、ラウンジのチーフスタッフである園田香織は、たまに歓送迎会などで居酒屋にいくと、率先してそんなことをやっていた。
「気が利きますってところなんだろうけど、焼き鳥は串のまま食うのが一番うまいって」
 豪快に串にかじりつく秀夫の様子を、達也はそっと見つめた。
 長年、桜山ホテルのラウンジでコンビを組んでいながら、自分の父親より年嵩のシニアスタッフである秀夫と、当時はこんなふうに二人きりで酒を飲んだりはしなかった。
 あの頃、達也はローマ字に難読があることを誰にも打ち明けられず、周囲に壁を作っていたし、秀夫は秀夫で、関西で古典菓子の店を潰した過去を隠し、良くも悪くも淡々と仕事をこなしていた。
〝現地へいくと、見えてくるものは必ずある〟
 だが、ブノワ・ゴーランからの南仏のパティスリーへの誘いに戸惑っていたとき、そう言って達也の背中を押してくれたのは、ほかならぬ秀夫だった。
〝それに、もし将来、自分の店を持つつもりがあるなら、現地修業の経験はやっぱり武器になるよ〟
 散々ヨーロッパで修業したあげくに店を潰した自分が言っても少しも説得力がないが、と、秀夫は笑っていたけれど。
 自分の店を持つ――。秀夫から告げられた言葉が現実になるとは、あのときは考えていなかった。
 あれから、少しは前進しているのだろうか。
 この先のことを考えると、期待よりも不安のほうが、遥かに上回る気がする。
「いや、しかしねぇ。こんなことを言うのもあれだけど、僕は飛鳥井くんと仕事をしていた頃が懐かしいよ。近頃のラウンジときたらさぁ……」
 嘆息まじりの秀夫の言葉に、自分の思いに沈み込んでいた達也は我に返った。
「最近のラウンジ、どうなんですか?」
「それが、結構大変なんだよ」
 二杯目のジョッキを飲み干した秀夫は、いつの間にか冷酒に切り替えている。コップを渡され、達也も冷酒に口をつけながら、俄然愚痴めいてきた秀夫の話に耳を傾けた。
 曰く、アフタヌーンティーチームの要であるスイーツ担当のシェフ山崎朝子と、プランナーでもある香織の連携が、まったくうまくいっていないらしい。
「なにが原因なんですか」
 達也はいささか不審に思う。
 朝子を自分の後釜に任命したのは、達也自身だ。彼女の仕事の丁寧さや正確さは、一流ホテルのラウンジのシェフとして申し分ないはずだった。
「山崎さんのスキルに問題はないと思いますが」
 事実、朝子は桜山ホテルのラウンジのシェフ・パティシェールになってから、プランナー時代の涼音と組んで、いくつかの企画を成功させている。特に、抹茶やヨモギを使った和のグリーンアフタヌーンティーは、メディアでも大きく取り上げられるヒットになった。
「彼女が得意な和のテイストは、桜山ホテルの日本庭園のイメージにも合っていますし」
「スキルの問題じゃないんだよ。要するに、ありゃあ女同士の相性の問題だ」
 追加で頼んだもつ煮をつまみ、秀夫が眉根を寄せる。
「なんだかんだ言って、女ってやつは本当に駄目だね。途中から社会にしゃしゃり出てきてるから、ちっとも感情を制御できない」
 明け透けな物言いに唖然とすると、秀夫はぐいと冷酒をあおった。
「いや、こういう言い方は、今はまずいんだってことは重々承知してるつもりだけど、言いたくもなるんだよ。今日は男同士だし、本音でいかせてもらうけど、我々男はいくら相性が悪くたって、仕事ともなれば、それなりにこなしてきたわけじゃないか。そうでなければ、この社会は成り立ってこなかった」
「はあ……」
 女ってやつ。我々男。
 主語が大きすぎてどうかと思うが、達也は曖昧に頷いておいた。
 電車が通るたびにがたがたと揺れるこの店には、酔っぱらいの男たちしかいない。この場でジェンダーギャップがどうのこうのと言ったところで、意味をなさない気がした。
「ところが、女ってやつは駄目なんだな」
 秀夫が苦々しく吐き捨てる。
「園田さんは優等生で美人だし、ある意味、男の上司たちに取り立てられながら育ってきたタイプじゃない。いいところに勤める旦那と見合い結婚して、今は高級住宅街の一軒家暮らしだろ。おまけにかわいい男の子にも恵まれた。女性としては順風満帆だよね。だけど、山崎さんてのはその対極だ。スキルは認めるけど、言っちゃ悪いが地味だし、独身だし、この先結婚するつもりもなさそうときてる。そりゃ、両極端の二人が合うとは端(はな)から思ってないよ。でも、仕事となったら、そこをなんとかすり合わせるのが大人ってもんじゃないの」
「ええ、まあ」
 その点に関しては、秀夫の言うことはもっともだ。
「それが、駄目なんだよね。はじめは互いに様子見してたみたいだけど、最近じゃ露骨よ」
「なにがそんなに駄目なんですか」
「結局、生き方の違いなんだろうな。園田さんはお子さんもいるし、あんまり残業できないから、新しいことをやりたがらない。山崎さんは、それが不満で仕方がない」
「だったら、シェフ主導で新しいプランを作ればいいじゃないですか」
 達也は口を挟んだ。
「僕のときはそうしていましたけど」
 事実、香織のプランが物足りなかったとき、達也は自分からアイデアを出していた。
「飛鳥井くんがシェフのときはね」
 秀夫が思わせぶりに片眉を上げる。
「シェフが男なら、園田さんも素直に意見を受け入れるんだろうけど、生き方の異なる女同士になると、そこに張り合いが生まれちゃうのよ」
 女子校のクラスの主導権争いのような話を聞かされて、達也は絶句した。
「山崎さんも悪いんだよ。園田さんがお子さん優先で遅刻や早退を繰り返すと、露骨に嫌な顔するし」
 もつ煮を肴に冷酒を飲みつつ、秀夫が苦々しい表情を浮かべる。
「結局のところ、女ってのはどいつもこいつも自分本位なんだよ。バカバカしくて、つき合っていられない」
 最後のほうは、独り言のようだった。

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