老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。
――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。
「うわあ、すごいご馳走」
部屋着に着替えた涼音はリビングに入るなり、大きな鳶色の瞳を輝かせる。
早速、テーブルにつき、ワイングラスを重ね合った。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
ほろ苦いアーティチョークのサラダを肴にワインを楽しみ、それから魚介をたっぷり入れたサフラン風味のブイヤベースを味わった。
鱈に、ホタテに、ムール貝に、ハマグリ。今日はオマール海老も奮発した。
「すっごく、美味しい……」
魚介のうまみにスパイスが効いた澄んだサフランイエローのスープを口に運ぶたび、涼音がうっとりと溜め息をつく。
二人で向かい合ってゆっくりと食事をするのは、随分と久しぶりだ。
やっぱり、こういう時間が足りなかったんだな……。
幸せそうな涼音の様子を見るうち、達也の心の中も温かく満たされた。
「そうそう、達也さん。プレオープンで、予約制のホールケーキを受けつける件なんだけど」
バケットにグラスフェッドバターを塗りながら、涼音が達也を見る。
「定番の苺やチョコレートや栗のケーキに加えて、限定でアニバーサリーケーキを受けつけるのはどう?」
「アニバーサリーっていうと、誕生日とか、結婚記念日とかか」
「もちろん、それもあるけど、その人にとっての特別なお祝い。実際に直接打ち合わせをして、イメージに合った、世界で一つのオリジナルケーキを作るの」
「また、面倒なことを言い出したなぁ。作るのは、俺なんだぞ」
「そう言わないでよ。達也さんなら、絶対、すごくすてきなオリジナルケーキが作れるもの。プレオープンの大きな宣伝になるはず」
すでに頭の中に宣伝プランがあるらしく、涼音はきらきらと瞳を輝かせた。
この眼に弱いと、達也は内心苦笑する。
桜山ホテル時代から、よく言えば意欲的、悪く言えば面倒なプランを、涼音は次から次へと繰り出してきた。正直、空振りがなかったとは言えないが、涼音がプランナーを務めていたとき、桜山ホテルのラウンジは明るい活気に満ちていた。
それに、口では腐したものの、達也自身、少なからず胸が躍るものを感じる。
定番のクラシカルケーキもよいが、せっかく独立して自分の店を持つのだから、誰もやったことのない新しいケーキにも挑戦したい。
「ついでに、俺たちのウエディングケーキも作ろうか」
「最高!」
涼音が心底嬉しそうに手を合わせたので、達也は密かにほっとした。涼音の表情に、婚姻届を出すことを躊躇していた影は見えない。
「涼音」
達也は改めて切り出した。
「婚姻手続きの件、全部任せきりにして悪かった」
「そんなことないよ」
頭を下げると、涼音はびっくりしたように首を横に振る。
「達也さん、本当に忙しかったんだし。……それに、なんだかんだ言って、まだ手続き終わってないし……」
涼音の口調が、段々歯切れ悪くなった。
「いや、俺もちゃんと考えてなかったよ。改姓するほうの負担とか。なんだか、色々押しつけてごめん」
達也は率直な気持ちを述べたつもりだが、涼音は困ったように眉を寄せる。
「それ、達也さんが謝ることじゃないと思う」
「だけど、涼音は本当は改姓したくないんだろ?」
複雑な表情を浮かべている涼音に、達也は畳みかけた。
「それなのに、プロポーズを受けてくれた涼音の気持ちを、俺がちゃんと考えていなかった。俺は、結婚後も涼音には遠山姓を使ってほしいと思ってるし、なんなら屋号に飛鳥井と遠山を並べてもいいと思う。改姓の手続きも、できるだけサポートする」
「ちょ、ちょっと待って」
涼音が食べていたバケットを皿に置く。
「それって、やっぱり、私が改姓しなければいけないってことなのかな」
「だって」
そうだろう、と言いかけて、達也は口をつぐんだ。
気遣っても、やはり駄目だということなのか?
「それじゃ、俺が改姓すればいいのか」
「そうじゃなくて」
「じゃ、どうするの。こんなことばかり言い合ってたら、いつまでたっても婚姻届は出せないだろう」
思った以上に強い声が出て、一瞬、リビングがしんとする。涼音が唇を噛んでうつむいた。
達也の心に、焦りと後悔が湧く。
せっかくの誕生日を、こんな雰囲気にしたくなかった。
二人が黙ると、外から微かな葉擦れの音が響いた。表のムクロジが、風に揺れているのだ。どこかで、リーリーと虫も鳴いている。
「……俺は、涼音の本当の気持ちが知りたいよ」
口を開くと、押し殺すような声が出た。
「私は、ちゃんと納得した上で、達也さんと結婚したい」
涼音が姿勢を正して達也を見る。
「達也さんとは、しがらみなく結婚したい」
しがらみのない結婚?
そんなものが、この世の中にあるだろうか。どちらかが改姓しなければ、結婚はできない。男が改姓するとなったら、山ほど理由が必要になる。だから、ほとんどの場合、女性が改姓する。両親も、周囲も、みんなそうやって結婚してきた。
それが普通だから。
結婚すれば、相手の両親が義父母になる。結婚は、二人だけではできない。
それも常識だ。
絵に描いた餅のような理想論ばかり口にする涼音の左手の薬指にサファイヤの指輪が光っていることに、達也はどうしようもなく矛盾を覚える。
「結局、涼音は、俺との結婚が不安になってきたんじゃないの?」
気づくと、そう口にしていた。
「そんなことない」
途端に涼音が大きく首を横に振る。
だったら、どうすればいいのか。
世界に倣い日本の法律が変わるまで、結婚を棚上げにするつもりなのか。
そう考えた瞬間、達也の心に憤りが湧いた。
皆が粛々と準じてきた結婚を受け入れられないというのは、伴侶となる自分に与(くみ)せないものがあるからではないのだろうか。
「やっぱり、俺に障碍があるから……」
つい、胸の奥底に隠し持っていた虞(おそれ)がこぼれてしまう。
「達也!」
その瞬間、びっくりするような大声が響いた。テーブルに身を乗り出した涼音が、これまで見たことのない憤怒の表情を浮かべている。
「それ、本気で言ってるの?」
炎のような眼差しを向けられ、達也は言葉を失う。
がたりと音を立てて、涼音が立ち上がった。振り返ることもなくリビングを出ていく涼音の後ろ姿を、達也は茫然と見送ることしかできない。
あんな眼でにらまれたのは、出会ってから初めてのことだった。
やがて、表へ続く階段を下りていく足音が響き、勝手口の扉が乱暴に閉められた。恐らく実家へ帰るつもりなのだろう。追いかけなくてはいけないと分かっているのに、なぜか達也は立ち上がることができなかった。
どんなに通じているつもりでも、他人の気持ちは分からない。
達也の心に、苦いものが込み上げる。
最悪の誕生日にしてしまったな……。
随分長い間、一人で項垂れていたが、最後にはのろのろと立ち上がった。すっかり冷たくなったブイヤベースの鍋に蓋をする。
後片づけを終えて一階の厨房に戻ると、結局一口も食べてもらえなかったクイニーアマンのバターの香りが、寂しく漂っていた。