老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。
――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。
十一月に入ると、桜山ホテルのホテル棟とバンケット棟の入り口には、早くも豪奢なクリスマスツリーが飾られる。
なんだか、今年もあっという間だ。
毎年、同じようなことを言っている気がするけれど……。
金銀のきらびやかなオーナメントをまとったクリスマスツリーを横目に廊下を歩きながら、香織は今更のようにときの流れの速さに嘆息した。
ついこの間までうんざりするほど暑かったのに、もう年末が迫ってくる。年々残暑が長引くせいか、夏から冬への移行がことさら短く感じられた。
今でも日中は二十度を超える日が続いているが、朝晩はめっきり冷えるようになった。硝子窓の向こうに広がる広大な日本庭園の木々も、所々、赤や黄色に色づき始めている。
朝の日差しを受けて朱色に輝くイロハモミジに、香織は暫し眼をとめた。
忘年会やクリスマスといった最も大変な繁忙期を迎える直前の、今は比較的落ち着いた時期だ。
とはいえ、そうそうのんびりとはしていられない。
香織がプランニングも務めるアフタヌーンティーの企画会議は、通常七、八か月前に行われる。今は来年の夏に向けて、サマーアフタヌーンティーを開発中だ。
そのことを考えると、腕に抱えているファイルが急に重くなる。
この日の会議も、決して捗々しいものではなかった。
息子の春樹を保育園に送り届けるのに手こずり、少々遅刻してしまったこともある。仕込みの時間を気にする朝子の冷たい眼差しを思い返せば、今でも胃の縁がきゅっとした。
だって、仕方がないじゃないの。
我知らず、香織は深く息を吐く。
そもそも会議が毎回週明けなのが問題だ。月曜日は他の日に比べてラウンジが混雑しないため会議が設定されているのだろうが、我が家でやりたい放題の休日を満喫した三歳児が保育園にいきたくないと大泣きするのもまた、週明けなのだ。
会議があるからと一旦は夫の幸成(ゆきなり)に任せたものの、散々にぐずられ「やっぱりママじゃないと駄目だ」と匙を投げられるのが、毎回、遅刻寸前のタイミングときている。
まったく……。
春樹と一緒になって、「ママ、ママ」と甘ったれた声で自分を呼ぶ、四歳年下の夫の情けない顔が香織の脳裏をよぎった。
機嫌のいいときの息子の相手しかできないなら、理解のあるイクメンぶるのをやめてほしい。
大体において理解とはなにか。一体、なにに対して意を汲んでいるつもりなのか。
二人で作った子どもなのだから、理解する以前に、共に骨を折るのが当たり前のはずだ。
にもかかわらず、一番厄介な部分は「やっぱりママじゃないと」の一言で、結局自分に丸投げされる。孫を猫かわいがりするだけの〝ばあば〟や〝じいじ〟たちも、別段それをおかしなことだと思っている様子はない。
それどころか「やっぱりママが一番」は、香織に対する最大の賛辞だと考えている節がある。
出産直後に襲いかかってきたワンオペ育児は、春樹が三歳になった今も、たいして改善されていなかった。
こうした苦労を、職場に分かってほしいと願うのは、果たして「ワーママの甘え」なのだろうか。
育児休暇が明けてラウンジに復帰してから、自分の立場は随分と変わってしまったように感じられる。以前は、上からも下からも信頼されている手応えがあった。
ところが今は、シェフ・パティシェールの朝子からも、ラウンジのサポーター社員たちからも、チーフとして物足りないと思われている気がしてならない。
事実、春樹が産まれてからは、以前のようにラウンジの仕事に専心することが難しくなった。保育園から連絡があれば仕事を切り上げなくてはならないし、一番忙しい土日のシフトにもなかなか入れない。しわ寄せがいくサポーター社員たちが陰で不満を募らせていることも、薄々感じている。
涼音が抜けて以降、現場の唯一の正社員となった瑠璃も頑張ってくれてはいるが、如何せん、まだ二十代の彼女はラウンジをまとめるには若すぎる。
そのことを煎じ詰めて考えると、以前とまったく変わらずに仕事をしている幸成のことが、香織は段々憎らしくなってくる。子どもが生まれたからといって、男親のキャリアが危うくなることは、滅多にないはずだ。
どうして、たまに春樹の世話をするだけの夫が〝イクメン〟と社会的にも誉めそやされ、本当の面倒ごとを一気に引き受けている自分が、チーフとしての信頼を揺らがされなければいけないのだろう。
そんなに大変なら、仕事を辞めればいい。
しかし少しでも愚痴をこぼそうものなら、夫や義父母はもちろん、実の両親からまで異口同音に辞職を促される。
夫の収入は悪くないし、両親も義父母もある程度の資産を持っている。その点からすれば、確かに、自分がどうしても働かなければならないほど、我が家は困窮していない。
でも、私のキャリアはどうなるの?
老舗ホテルラウンジのチーフの座を獲得するために、香織はティーインストラクターと紅茶アドバイザーの資格まで取った。
そうやって積み重ねてきた苦労や努力を、母親業の前で、すべてふいにしろと説くつもりなのだろうか。
まるで、それこそが正論だとでも言わんばかりに。
冗談じゃない。
香織は軽く下唇を噛む。
私にだって、意地がある。春樹はもちろん大切だけれど、桜山ホテルのラウンジのチーフとしての立場だって、護るべきものの一つなのだ。
だからこそ、受け入れ難いものもある。
誰もいない廊下で立ちどまり、香織はファイルを開いてみた。
現在開発中の来年のサマーアフタヌーンティーの特製菓子(スペシャリテ)に、朝子が提案してきたのはサマープディングだ。
プディングというと、その語感からか日本ではプリンのようなものを連想する人が多いが、ヨーロッパではそもそも蒸し料理のことを指す言葉だったらしい。菓子としてのプディングは、十七世紀のプラムプディングが始まりだったという説が濃厚だ。ゼラチンやコーンスターチで固めるタイプの菓子を指すことが多いが、イギリスでは、プディングとデザートを同義の言葉として扱うこともある。
サマープディングは、ラズベリー、レッドカラント、苺、ブラックベリー、ブルーベリー等、夏の果実をふんだんに使ったイギリスのデザートだ。
しかし、レストランより、どちらかというと、家庭で作られている菓子という印象が強い。
しかも朝子は、イギリス伝統の製法にこだわり、スポンジ(ジェノワ)ではなく、食パンを使いたいと言い出したのだ。
駄目、駄目。そんなの絶対駄目。
ファイルを閉じ、香織は首を横に振る。
食事系(セイボリー)のサンドイッチならともかく、見目麗しさとゴージャスが信条のホテルアフタヌーンティーのスイーツのスペシャリテに、食パンを使ったお菓子だなんて。
セイボリー担当のシェフ、秀夫も「それじゃジャムパンだな」とにべもないことを言っていた。
だったら、飛鳥井シェフ時代から大人気のピーチ・メルバがあるじゃないの。
定番の苺に並び、白桃は最近では夏のアフタヌーンティーに欠かせない人気素材だ。
〝ピーチ・メルバは、今はどのラウンジでも出してるじゃないですか。来夏は、もっとオリジナリティーのあるスペシャリテを提供したいんです〟
だが、香織の提案に、朝子は真っ向から反対してきた。
香織がたびたび達也時代のメニューの踏襲を持ち出すことが、朝子は気に入らないのだろう。
涼音がプランナーをしていた時代はもっと新しいことに挑戦できたと、面と向かって物申されたこともある。
その裏側に、そろそろ桜山ホテルのアフタヌーンティーに自分の色を出したいという朝子のエゴを感じ取り、香織は胸の奥底になにかもやもやとするものを覚えるのだ。
シェフが、メニューに自分の創意を凝らしたいと考えるのは当たり前だ。
それは理解できているのに、なぜこんな気持ちになるのだろう。朝子が十歳近く若いからだろうか。否、達也だって、随分年下のシェフだった。
でも。