
1 かわいい彼女(承前)
土曜日が休みになるのは久しぶりで、昼までに洗濯を終わらせて、駒子(こまこ)は午後四時すぎに自分の部屋がある二階から同じマンションの一階の清水千景(ちかげ)の部屋へ階段を下りた。
どこからか金木犀(きんもくせい)の香りが漂ってくるが、廊下からは見えない。マンション前の植え込みの木々は名前がわからないが、深い緑の分厚い葉を茂らせている。今年の冬は寒くならないだろう、と駒子は急に思った。
「先日お話ししたようにドラマの制作に携わっておりまして、登場人物の造形についてリアリティを持たせるために、子育てをしながら働いていらっしゃった方、働く母に育てられた方にインタビューをさせていただきたいのです。確か、原田さんのお母さまは結婚後もお仕事を続けられお父さまも協力されていたと記憶しています。ぼくも母に連れられてお花を買いに行ったときのお母さまの素敵な笑顔が印象に残っております。ぼくたちの親世代で子育てをしながらお仕事を続ける女性は少なかった中でご活躍されていた方のことをうかがいたく、ご連絡をさせていただいた次第です。どうかよろしくお願いいたします。」
駒子は、小松原大哉(だいや)からのメッセージを読み上げた。
キッチンのすぐ前に置かれたテーブルの向かいで缶ビールを開けた清水千景は、はー、なるほどー、とつぶやいた。
テーブルには、最寄り駅の近くで駒子が買ってきた卵サンドと焼き鳥、千景が昨日の出張先だった宇都宮で買ってきた餃子が並べられていた。
千景の背後の和室には、取り込んだまま畳まれていない洗濯物の山が二つ見える。その周りには、通販で何か買ったらしい開いたままの段ボール箱が三つ転がっていた。
「三十年前、四十年前でも働いてた女の人、ようさんおったと思うけどな。ウチの母親もやし、病院にも母より年上の看護婦さん、……あ、今は看護師さんやな、何人もいてはったよ。一般企業の正社員で長く勤める人は少なかったやろうけど」
千景の母は看護師で、ほぼシングルマザー状態で千景を育てたと、駒子は聞いていた。七十三歳の今も大阪の訪問看護の事業所で働いている。
「母の実家の花屋があった商店街も、お店にメインで出てる女の人は多かったし、その同級生もそれ見てるはずなのに、ウチだけが珍しいみたいな言い方じゃない? この文面」
「お店の人は『社会人』とは思ってへんかったんかな」
「学生時代の友達は実家が農業だったんだけど、お母さんもおばあちゃんもずっと働いてるのに周りの人からは主婦って言われるって話してたな」
「テレビドラマはそういう家族出てくるの少なかったよなあ、最近はどうなんかわからんけど」
駒子も、この数年は配信サービスで少し前の海外ドラマシリーズを一気見することが多く、地上波のドラマをリアルタイムで観ることはほぼなかった。小松原大哉が関わったというドラマも知らないタイトルだったし、彼がこの二年ほど携わっているという新しい配信サービス自体、使ったことがなかった。
「こまっくの小中学校の同級生?」
千景は駒子をこまっくと呼ぶ。
「小学校まで。大哉は受験して中学から私立行ったから。だいぶ前に一回だけあった中学の同窓会も来てなくて、去年のその飲み会で二十年ぶりぐらいに会った。誰かが仕事でたまたま接点があって誘ったとか言ってたかな」
今ほど中学受験をする子供が多くなかった中で、母親が運転する車で隣の市にある難関校受験専門の塾に通う大哉の姿は目立ってはいた。ブランドものの服を着せられた彼の母子関係は、「ダイヤ」と読む名前も相まって、同級生やその母親たちが過保護や教育ママという言葉で噂話の話題になることもあった。駒子は母の営む生花店で手伝いをしたり商店街の店に使いに行くことが多かったので、井戸端会議の類はよく耳に入ってきた。
小松原大哉本人は、気取ったり嫌味だったりするところはなく、女子に乱暴な言動もない、話しやすい男子と認識されていた。お母さんが買ってきた人気店のお菓子を分けてくれることもよくあった。それまでに食べたことのない洗練された甘さに驚いて、その箱の花模様まで今も駒子は覚えていた。
去年会ったときも、だいたいその印象のままだった。白いシャツにカーディガンという服装や、料理を取り分けたり注文をまとめたりしてくれるのを、相変わらずそつがないって感じ、と駒子は眺めていた。
「こまっくは地元の同級生の飲み会とかけっこう行くんやったっけ?」
「たまに、かな。しょっちゅう会ってる子たちもいるみたいだけど、私は二、三年に一回参加するぐらい」
「東京やと地元におる人多そうやけど、あんまり会わへんもんなんや」
「近場にいるからわざわざ連絡しないってのもあるかも」
「それもそうやな」
駒子が、清水千景が住むこの古いマンションに引っ越して来たのは、二〇一九年の年末だった。それまでは友達の友達という関係で飲み食いの場でしゃべる機会があった程度だったが、なんとなく話しやすい人だという認識が駒子にはあった。千景は十近く年上なので、子供のころから年上の女性に対してなんとなく苦手意識があった駒子は、なぜこの人はしゃべりやすいと思うのかと考えてみたことがあった。大阪弁の独特な距離感なのか、誰に対してもフラットな感じがするからなのか。明確な理由はわからなかった。
二〇一九年の暮れに新大久保の韓国料理店でカンジャンケジャンを食べようと集まったとき、駒子は五年つきあってそのうちの三年間同居していた男と別れたところで、引っ越し先を探し中だ、と話した。すると千景が、同じマンションに空いてる部屋があるからどうか、と言ったのだった。
千景が言うには、仕事で定期的に出張があって、家を空けるたびになにかあったらと不安になる、春までは息子が沿線の大学に通うために同居していたので助かっていたが、就職して隣県に引っ越したのでまた不安になっている、とのことだった。不安て? と駒子が聞くと、鍵かけたかとかガス止めたかとか、と千景は言った。郵便物が溜まっているのを見て空き巣に入られるんじゃないかとか、漏電して火事になるんじゃないかとか、水漏れするんちゃうかとか。知り合いで上の階の水漏れで天井抜けた人おんねん。今住んでるとこは一階やから下の階の人の心配せんでええのはましやけど……。
意外、と駒子だけでなく、横で話を聞いていた友人たちも言った。元は学生時代からのその友人のバイト先の先輩という関係で千景と知り合ったのだったが、その友人のほうはコロナ禍の間に夫の転勤もあって大宮に引っ越し、会う機会が減った。
千景さんはおおらかで細かいこと気にしない感じかと思った。
よく言えばおおらか、そのまま言えば大雑把(おおざっぱ)? と、千景は笑い、それから、それとこれとはまた別なんよね、と笑わずに言った。千景は息子と二つ上の娘がまだ小さいときに離婚して、子供は夫とその実家で育ったというのは、駒子もそれまでにちらちら聞いたことがあった。二十歳を過ぎた子供がいるというのも、駒子には意外だった。
千景の提案した二階の部屋は、長らく住んでいていざとなれば頼み事もできた年配の女性が、娘夫婦と同居するからと先月引っ越したとのことだった。まだ空いてそうだから不動産屋に連絡してみると帰り際に言っていたなと思ったら、翌日の昼前には千景から駒子にメッセージが届いた。
三日後に部屋を見に行った。通勤経路や駅までの距離、広さや家賃などはだいたい条件の範囲内だった。特別にいいというところもなかったがここがいやだと思うところもなかったので、その場で入居を決めた。いやなところがなかった、というのは、引っ越し先を決めるのに賢明な選び方だったかもしれない、とあっという間に四年近く過ぎて駒子は思う。
千景は月に一度か二度出張があるが、すぐ頼める人がいるというだけで不安はおおかた解消されるらしく、宅配便を代わりに受け取ったことがあるだけで、特に頼まれ事はない。
駒子にしても、引っ越してまもなく新型コロナウイルスの流行によって外出が制限され、その時期にすぐ近くで会える人がいたことはかなり助けになった。元彼と住んでいた部屋に住み続けることも考えていたが、どの駅からも中途半端に遠く、近くに住む知人もいないあの部屋に住んでいたらさぞ気が滅入っていただろう。
そして、外出がままならない間にしょっちゅう互いの家でごはんを食べて話すうち、それほど親しい関係ではなかった千景に、なぜ親しみを感じていたのか、だんだんわかってきた。
「職場でも母のことを聞いてきた人がいてさ」
駒子は、マイマイ長谷部から唐突に話しかけられた顛末を話した。
「ああ、あの育メンバンドマン」
千景は、マイマイ長谷部のバンドやライターとして書いていた記事もリアルタイムでの記憶が多少あった。とはいえ、駒子が話す今の職場での言動が会ったことのないマイマイ長谷部の人物像を作っているので、彼のことは十年くらい前から書き続けている子育て日記の人として認識していた。長谷部は、最初は自分のインスタグラムに載せていた料理の写真と作り方や育児にまつわる四コマ漫画が徐々に人気になり、複数のウェブサイトで連載した時期もあった。
「今は動画配信がメインだよ。えーっと、これ。あ、ちょうど餃子のアレンジやってる」
駒子はスマホで動画配信のチャンネルを検索し、千景に見せた。
木製のキャビネットにステンレスのカウンターが造作されたアイランドキッチンで、星のカービィが胸に描かれたピンクのエプロンをつけた長谷部が、冷凍餃子を使ったラーメンを作っている。
背後に映るリビングの天井からはリュウゼツランやエアプランツがぶら下がっていた。
「なんやおしゃれハウスやな」
「妻氏が建築とか好きな人なんだってさ」
「妻氏は出てけえへんの?」
少し前に駒子と千景を含む友人たちと池袋の中華料理店で羊の串焼きを食べていたとき、自分や誰かの配偶者を呼ぶのになんという言葉を使えばいいか、話した。ご主人はさすがに言わないにしても、だんなさんや奥さんは代わりの言い方がなくて難しいよね。おつれあいやパートナーはときどき使うようになったけど。でも仕事のパートナーの意味で使う人もいて微妙なときない? その場にいるときとそこにいない人の話をするときでも違うよね。妻さん、夫さん、も言ってみたけどなんかこなれなくて。
あれこれ言っているうちに、一人が趣味の舞台鑑賞の仲間内では妻氏、夫氏と使うと言い、それは比較的言いやすいかも、そうかな、悪目立ちしない? などと話していると、千景が言った。今は奥さんのこと嫁って言う男の人けっこうおるけど、あれは関西の芸人がテレビにようさん出るようになって広まったと思うねんな、私が東京に来たばっかりのころは職場のおじさんが「かみさん」って言うてて、わー、刑事コロンボみたいやって妙に感動してたし、だいたい、嫁って夫の親から見た立場とちゃうん。友人たちは頷いた。確かに、今かみさんて言う人あんまいないよね、女房とか家内もね、山の神? なにそれ? まあ、結局は慣れだよ、慣れだね慣れ。
ということで、その友人たちの間では妻氏、夫氏と言うことになり、駒子も千景も、他の人と話すときにもときどきその呼称を使ってみているし、妻さん、夫さんと言うこともある。
「妻氏からは、映りたくないし、自分の話もしないでって言われてるって」
マイマイ長谷部の妻は、バンドが所属していたレコード会社で働いていた人で、その後ソフトウェアの開発会社に転職し、今では役員をつとめているらしい。収入が高い分、激務でもあり、長谷部が主夫業をやることも、駄菓子を使った創作料理を作ったりするお気楽なノリも、家に帰って癒やされるそうで、ともかく家族としてうまくいっているとのことだ。
「そういやブログにも妻氏のことは全然書いてへんかったな。育メン話やのに、子供の言動も最小限しか書いてなかったような」
「初期は子供がこんなおもしろいこと言った、変な行動をしたって話をよく書いてたらしいけど、子供が成長して友達からなんか言われたとかで削除したと聞いた気がする」
「いじめられたとか?」
「そういう感じじゃなかったと思うけど、まあ、いやじゃん? 自分のことを親が書いてるの、友達に読まれたら」
「そらそやな」
千景は冷蔵庫から缶ビールを二本取ってきて、一本は駒子の前に置き、もう一本を開けて飲み始めた。
少し前にも、子供の写真をSNSに載せるのはよくないという話題が、それこそSNSで盛り上がっていた。防犯上の問題も大きいが、子供が理解しないうちに自分の様々な姿、特になにかに失敗して泣いているところなんかを公開されるのは大人になってから親との関係が悪化する原因になると書いている人もいた。
うちの子供が小さいときはそういうのなくて助かったわ、あっても私はやらんかったと思うけど、とやはりこの部屋でビールを飲みながら千景は言っていた。今も、千景は連絡用に使うもの以外はSNSのアカウントを持っていない。駒子は、一時期は少し書き込んだりしていたものの、この一年ほどは放置したままである。
駒子も二本目のビールを飲み始めた。窓の外は暗くなっていて、昔の季節の記憶よりもずいぶん気温は高いが、それでも秋にはなっているのだと駒子は思った。
「同級生の取材、返事したん?」
千景が聞いた。
「まだ」
「受ける気がないこともない?」
「めんどくさいこと言ってくるよなー、が九割」
ビールの苦みが、口の中に残っている。地元で同級生たちと会ったときには何を飲んでいたか、思い出せなかった。駅前にずいぶん前からある居酒屋のチェーン店だった。
「残りの一割は?」
「んー、なんだろね」
返事を書こうとする度に手が止まってしまうのはなぜなのか、駒子はまだ言葉にできずにいた。マイマイ長谷部のしつこい詮索に対して無視せずに否定を続けたのも、同じ感情から来ている気はした。喉の下に、胸のあたりに、ずっとわだかまっているなにか。
あっという間に二本目を飲み干して、千景が言った。
「私は、なんかおもろそう、って積極的に思わへんことは断るようにしてる。相手も困ってるし、みたいな感じで引き受けるとろくなことにならへん」
「それは私も学びつつあるね」
駒子は頷いた。小松原大哉の頼みを聞かないほうがいいのはわかっていた。自分になにか得るものがあるわけでもない。
テーブルの端に置いていた携帯電話が鳴った。
チャイムに似た着信音が唐突に響いて、駒子は目に見えてわかるくらい身体をきゅっと縮めた。
着信音は鳴り続け、駒子は画面を確かめることもなく携帯電話を裏返した。しばらく鳴り続けたあと、途切れた。そのあとは電話はかかってこず、他に音のない部屋の中が異様に静かに感じた。
「人によって着信音を使い分けへんほうがええかもやで」
口を開いたのは、千景だった。
「条件反射で余計に不安になるからな」
「そうかも」
駒子は短くそう返して、携帯電話を椅子の背にひっかけていた手提げ袋につっこんだ。
「せや、ピオーネあるんやった」
立ち上がりかけた千景に、駒子は言った。
「千景さん、今度、その映画いっしょに観てくれない?」
(続く)

