
2 奔放な彼女
「見てくれる? これ!」
マイマイ長谷部(はせべ)が、満面の笑みでカバーの擦(す)り切れた本を掲げた。
今日も音楽教室の受付カウンターで駒子(こまこ)が一人になったところを見計らって、話しかけてきた。水曜の午後、夕方からのレッスン生が多くなる前のひと息つける時間なのに、という面倒さを態度に出して、駒子は素っ気ない返答をする。
「よかったですね」
無表情の駒子にかまわず、マイマイ長谷部はそれほど厚くない単行本をカウンターに立て、開いて見せる。
七〇年代後半に活動していたバンド、ザ・ラストサウンズのベーシストだったダイスケが解散後に出版した自伝エッセイ。開いたそこには「長谷部亮二(りょうじ)さんへ」の宛名と、竜巻みたいな形の読めないサインがあった。
「超レアだよ、ダイスケさんのサインは。この本出したあとは表舞台には出てないからね。おれの特権」
サインの下には、1999・6・8と日付がある。
マイマイ長谷部は何歳で、自分は何歳だっただろう、と駒子は思うが、すぐに数字は出てこなかった。本が出版されたのは確か八〇年代の半ばだったはずだから、このサインをもらったのはずいぶん後ということだ。著者の山野は音楽活動は辞めて芸能事務所の役員かなにかになっていると聞いたことがあった。
開いたページの上で、長谷部は自慢げな顔をしている。
「ああ、長谷部さん、元人気ミュージシャンですもんね」
「元じゃないっすよー、頼みますよー、来年アルバム出す計画あるから! 解散してないんで!」
長谷部がベーシストをつとめていたバンドは解散ではなく長い活動休止中なのだと、何度か聞いた気はした。
「楽しみにしてまーす」
話を終わらせたい駒子は、作り笑いでなるべく適当なことを言った。
長谷部はわざとらしく「がっくり」という感じにうなだれたあと、
「原田さんの趣味じゃないとは思うけどさ、完成したら聴いてくださいよ」
声のトーンが変わり、新しいアルバムにはそれなりに真剣に取り組んでいるようだ、と、駒子は思ったので、こちらも嘘ではないことを返答することにした。
「あんまりいい感想とか言えないと思いますから」
「いいのいいの、聴いてもらったら、それでオッケーっすよ。長いことやってるとさ、それは他のメンバーとの関係もそうなんだけど、ウケるとかウケないとかそれほど重要でもなくなってくるっていうか。自分たちがいい感じでやっていけることがなによりなんだよね。自己満足って言われたらその通りだけど、そもそも好きな音楽をやりたいから楽器弾いたりバンドやったりしてきたわけで」
なぜこの人はいつも楽しそうにしているのだろう、と駒子は座ったまま長谷部を見上げた。鼈甲(べっこう)フレームの眼鏡は新調したらしい。グレーのスウェットの胸にはサーフボードに乗った猫のイラスト。高校生ぐらいから趣味が変わってなさそう、とも思った。
「原田さんは、最近はなに聴いてんすか?」
長谷部が重ねて聞いてきた。
「ボディ・カウントですかね」
「バンド?」
と長谷部に尋ねられて、ギャングスタ・ラップで知られるICE-Tがボーカルをやっているバンドだと、駒子は簡潔に説明した。長谷部がスマホで検索して動画を再生すると、激しいドラムとギターが大きな音で響き、慌てて音量を下げた。
「いやあ、渋いね! 何回も言っちゃってるけどさ、原田さんがヘヴィ・メタルが好きだとは超意外」
「ボディ・カウントはどっちかというとハードコア・パンクじゃないですかね。あんまりジャンルで分けて聴かないんですけど、重くて速くなったり遅くなったりする音楽が好きで」
「いいねえ、その表現。さすがだなあ」
言いつつ、長谷部はスマホの画面をスクロールして、コップ・キラーってボディ・カウントなんだ、などとつぶやく。
「原田さん、そういう音楽聴くようには見えないからさ」
「見えないってなんですか?」
「ごつい格好してないし」
「職場ですから」
白い長袖Tシャツに黒いジャケットという、音楽教室の受付に馴染む服装で駒子は業務についていた。仕事ではどの日もだいたい似たような格好だ。
「じゃ、職場以外では着てるんですか?」
長谷部が「そういう音楽を聴くように見える」のは、黒地にバンドのロゴがプリントされたTシャツや、レザーに鋲(びょう)がついたジャケットかなにかだろうか。
「フツーです。着てたら着てたで長谷部さんみたいな人にあれこれ聞かれてめんどくさそう」
「厳しいなあ、原田さんは」
この人はこれでコミュニケーションが取れているつもりだから楽しそうにしているのか。人当たりがいいので受講生や他のスタッフからのウケはよく、主夫ブログや配信チャンネルにも「こんなお父さんだったらいいなあ」「リラックスできるおうちなんだろうね」などのコメントが書き込まれている長谷部だが、駒子は「よくわからない人」と思っていた。
特別苦手というわけではないし、細かいことにうるさい講師よりは気を遣わずに話せるところはあって、面倒だと思いつつもつい会話を続けてしまうのだが。
長谷部は再び、単行本を駒子の前に掲げた。
「読みますか?」
「なんのために?」
「ご両親の若いころのこと、知りたくないですか?」
表紙がこちらに向けられた本を、じっくり眺めてみる。
全体に色褪せている。端が破れた帯には「音楽だけがぼくたちの会話だった――ザ・ラストサウンズのダイスケによる珠玉の自伝エッセイ」の文字が並ぶ。カバーにはタイトルと著者名がゴシック体で斜めに配置されている。写真をなぞって描いたようなイラストは、ライブハウスの外観と看板。そこが彼らのバンドがよく出演していた、とうになくなった店だということを、駒子は知っていた。
「だから、そこに書いてあるのは母じゃないです」
「でも、モデルになってるのは原田さんのお母さんなんだよね? 大幅に脚色されてるにしてもさ。で、最後に出てくるおぼっちゃまがお父さんでしょ?」
「違います」
駒子は、声を硬くして言った。
「母も父も、その人じゃないです」
「あ、ごめんなさいごめんなさい、おれ、すぐ調子乗り過ぎちゃうから、あこがれてきたあの世界に関係ある人が目の前にいると思うとつい、ほんとに、ごめんなさい」
大げさな身振りで手を合わせ、長谷部は頭を下げる。
ひたすら謝れば押し切れると思ってる人っているよなあ、と駒子はうんざりしつつ、カウンターに置かれた本を手で押し戻した。
マイマイ長谷部は、中身のない「ごめんなさい」を繰り返しながら本をしまい、帰り支度をして出ていった。
入れ違いに、八木さんが二階のレッスン室の片付けを終えて戻ってきた。次の時間のレッスンを受ける小中学生たちが続けて入ってきて、二人はしばし受付業務に追われる。学校と同じチャイムが鳴り、各レッスン室のドアが閉まると、建物の中は急に静かになった。ガラスのドアの向こうでは、買い物を済ませて子供を自転車に乗せた母親たちや下校する近くの高校の生徒たちが行き交っている。
「このところ、やたらマイマイさんに話しかけられてないですか?」
来月開催される、レッスンを受けている小学生たちのミニ発表会のチラシを封筒に入れながら、八木さんが聞いた。
「あー、共通の知り合いがいる、というか」
「そうなんですか。音楽関係の人ですか?」
「そんな感じ」
「マイマイさんのバンドって、原田さんは聴いてましたか?」
「ううん。名前は知ってるぐらい。買ってた雑誌に載ってたから、コラムは読んでた。スナック菓子とかインスタントラーメンの新商品の名前から歌を作ってみる、っていう。それを書いてたのがマイマイさんだってわかったのは、ここの教室でマイマイさんに教えてもらってからだけど」
「いかにもマイマイさんって感じですね、お菓子とかラーメンの名前を歌にするって。こないだも、コンビニの有名ラーメン店とのコラボはどこがおいしいか、語ってました」
どのラーメンがおいしいかは知りたかったので、駒子は八木さんから聞き、さらにそのランキングは動画で配信しているとのことだったので、仕事帰りの電車で見ようと思った。
「常にお気楽な言動の人って、こっちのコンディションでほっとするときと腹立つときとありますよね」
と八木さんが言ったので、駒子はうなずきつつ笑った。
「そのエッセイのほうも、読んだことあるんや?」
駒子の部屋で、ビールに唐揚げをつまみながら清水千景(ちかげ)が言った。
駒子は平日が休みのことが多い。水曜の今日は、珍しく定時で仕事が終わった千景から駅前に新しくできた店の唐揚げを買っていっていいかと夕方にメッセージが届いた。
「うろ覚えだけど、読んだのは読んだ。なんか、うちにあって」
駒子は、冷凍の焼売(しゅうまい)を電子レンジに入れながら、答えた。
いっしょにごはんを食べるときは千景の部屋のほうが多いが、今日は駒子は部屋を片づけていたので、千景のほうが二階に上がってきた。
千景は、美容院やネイルサロン、エステサロンなど美容系の業種を対象にした顧客管理と経理システムの会社でインストラクターをしていて、新規導入やシステム更新の店舗を訪問するのがメインの業務だが、他のスタッフや取引先の担当者を対象にしたセミナーの講師を務めることもある。駒子がここに越してきたころには、会社が関西を地盤にする企業と業務提携した時期で遠方の出張が多かったのだが、今年に入ってからは遠くても仙台あたりまでで出かける回数も減った。
家を空ける不安はあったけど自分では旅行なんかせえへんからいろんなとこ行けるのはよかったんやけどね、と千景はときどき言っていて、駒子も千景が買ってくるお土産のお菓子などが楽しみだったなと思う。とはいえ、出張が続くと、特にまだコロナ禍の行動制限がある中での長距離移動には千景が疲れているのがよくわかり、普段から散らかりがちな部屋がさらに収拾がつかなくなっていたこともあったので、今の少し落ち着いた生活のほうがよさそうではある。駒子は、部屋の片づけを手伝おうかと最初のころは申し出ていたのだが、千景は、手伝ってもらうことが苦手なのか部屋の中の物を人に触られるのが好きではないのか、だいじょうぶだいじょうぶ、いいねんいいねん、と断り続けた。駒子のほうもそれを理解して、今は、千景が出張の時に戸締まりとポストの確認だけすることにして、それ以外は何度か宅配便を受け取ったことがあるだけだ。
エレベーターのない古いマンションで、駒子が粗大ごみを出すときに千景は運ぶのを手伝ってくれるが、千景のほうは大きく重いものでも駒子には言わずに一人でどうにか運んでしまう。先月は解体した棚を一人で捨てようとして階段で手を滑らせ、腕を少し切ってしまったが、それも傷が治ったころになって駒子は知ったのだった。
駒子も、人に頼み事をしたり困っていることを話したりするのは苦手なほうだが、千景は徹底しているなと思う。ここに引っ越して来たのは、千景が留守中に不安があって誰か近くに住んでくれたら、と言われたのがきっかけだった。それは千景が助けを求めたと駒子は思っていたが、もしかしたらあのときは駒子がそれまでつき合っていた相手が出ていった部屋から引っ越すか決めきれずにいたので、千景のほうが駒子を助けたのかもしれない、としばらくして思うようになった。
電子レンジから駒子が焼売を取り出すと、千景は勝手知ったる食器棚から小皿と醤油を取ってテーブルに並べた。
「お母さんかお父さんが読んでたん?」
「いや、読んでないんじゃないかな。本が出てから十年くらい経ってたはずだけど、物置き部屋に放置されてて、チラシとかも挟まったままで開いたことない感じだった」
焼売は、近所のスーパーにときどき出店する横浜の中華店のもので、駒子は見つけるとまとめて買う。蒸し器で蒸すと冷凍のでもすごくおいしいよ、電子レンジとは全然違うから、と千景との共通の友人の一人は言うが、どうしても手間だと思ってしまうのと狭い台所にこれ以上物を増やせないので、駒子は今後もレンジだろうと思う。
「そのダイスケって人が送ってきたんやろか」
「どうだろうね。結婚してからは、そのバンドの人たちとは交流はないみたいだけど」
「それなりに複雑そうやんな。いちおう、お母さんの元カレ的な人やろ?」
「違うと思うよ。エッセイにもそうは書いてないし。そのダイスケって人とドラムの人が、バンドの練習場所の近くの花屋にかわいい子がいるって見にいったり話しかけたりして、そのうちに彼女が何回かライブ観に来て、新曲をほめてくれたりして、でも真面目な会社員と結婚しちゃいました、って話」
「えー、そうなんや。あの映画、YouTubeに上がってた昔の予告映像観ただけやけど、同じバンドの男二人が同じ女の子を好きになって、それが原因でバンドが解散するみたいな話かと思ったわ」
千景には、駒子の母が実家の生花店を継いで働き続けていたことはこれまでにも話していたし、母が若いときに知り合いだったバンドの人が母らしき人のことをエッセイに書いたこと、さらにそれが映画化されて、その後もどこからかそのことを知って駒子に関係を聞いてくる人がいることは、ちらっと言ったことはあったが、詳しく話してはいなかった。
マイマイ長谷部にあれこれ聞かれたあと、駒子が千景にその映画をいっしょに観てくれないかと言ったので、千景はそのバンドや映画のことをネットで検索してみたらしい。
焼売は電子レンジで温めてもじゅうぶんにおいしく、ビールによく合った。
「映画は、そんな感じ。そもそも、エッセイだとその花屋の女の子のエピソードってほんのちょっとだけなんだよね。自伝エッセイだから、京都で育ったとこから始まってて、学生がたむろってた近所の喫茶店での音楽との出会いとか映画の勉強をしたくて東京の大学に行ったけどバンド活動にのめり込んで中退したこととかがメインで。京都時代の話は、言葉の表現が独特っていうか、おもしろいと思った記憶が」
「へー。まあ、映画化ってそういうことけっこうあるもんなあ。私も映画観ておもしろかったから原作の小説読んだら、映画の中で上演されてる舞台がその小説部分でびっくりしたことあるわ。映画も小説もどっちもおもしろかったのはおもしろかったんやけどさ」
「それに、映画のタイトルになってる『明日の世界』って曲で歌われてる『きみ』ってダイスケの妻氏なんだよね。学生時代からつきあってた人で」
駒子は、長谷部に差し出された本と、ダイスケのサインを思い浮かべた。あの黒いインキで書かれた竜巻みたいなサインを、駒子が生まれる前に地元の商店街を歩いていて生花店で母に話しかけた人が書いたと思うと、奇妙な心持ちがした。本の中の人、映画の中の人という距離感だったのが、急に実在の人間だと実感したからかもしれない。
「それやったらますます話がちゃうんちゃう? じゃ、花屋の女の子は浮気みたいな?」
「っていうほどでもないんじゃないかな。その妻氏とはつきあったり別れたり繰り返してたみたいで、エッセイにはむしろその人とのエピソードがたくさん書いてあって、私も読んだときに、あれ? って思った。花屋の女の子は、かわいいって言って騒いでる対象っていうか、ファンみたいな? 多少の交流はあったらしいけど」
「はー。なるほどねえ」
千景は腕組みをして、しばらくなにか考えている表情だった。
「こまっくは、その本はいつ読んだんやっけ」
「小学五年か、六年?」
「子供が読む本じゃなかったんちゃう?」
「文章は難しくなかったし、私はそのくらいのときは図書館で大人の本の棚からばっかり借りてたから」
「五、六年やとそんなもんか。考えたら私も、アガサ・クリスティにはまってたわ」
「えっ? そうなの?」
「『そして誰もいなくなった』とか『鏡は横にひび割れて』とか、タイトルがかっこええやん。私も全部図書館で借りたなあ。うちは本なんか買う余裕なかったから。今読み返したら登場人物の関係とかもっとわかるとは思うけど、そのときもそれなりに読んでたしわかってた気もする」
「そんな感じだよね。その本は表紙もこじゃれてたしそれほど大人向けって雰囲気でもなかったんだけど、母も父もその当時の話を直接私にしたことはほとんどなかったから、読んでるのは親にはばれないほうがいいんだろうなってなんとなく思って、隠れて」
そのころ、駒子の家族は、駒子の母・真莉の実家でもあった生花店の二階で暮らしていた。店舗の奥の薄暗い急な階段を上がると台所と食事スペース、それから六畳ほどの部屋が二つの狭い空間に、母と父、三つ年上の兄と駒子の四人が生活していた。
路地というほどでもない、人がやっと一人通れるだけの通路を挟んだ裏の家屋の一部も間借りしており、その一階の部屋で真莉の母であり駒子の祖母・松代が寝起きしていた。生花店の家屋よりもさらに急な、梯子に近い階段の上が物置き部屋になっていた時期があり、駒子にとっては一人になれる貴重な空間でもあった。埃の積もった衣装ケースや何が入っているのかわからない段ボール箱が詰め込まれた四畳ほどの部屋で、箱の上で宿題をすることなんかもあった。階段脇に積み上げられたアルバムと衣装ケースの隙間に、その本は置いてあったというか、落ちていた。
ページをめくる指がかじかんでいたような覚えがあるから、本を見つけたのは冬だったのだろう。二階のそこには暖房もなかった。 (つづく)

