
夢の外側(第四回)
2 奔放な彼女(承前)
「映画は、いわゆるミニシアターで公開されてたから小学生が一人で観に行くにはハードル高くてさ。近所の人たちの噂話でだいたいの内容を知って。でも、近所の人も実際に観た人はそんなにいなかったんじゃないかな、今にして思えば」
駒子(こまこ)は、当時暮らしていた生花店の二階や切り花が並ぶ店先、まだじゅうぶんに賑(にぎ)やかだった商店街近辺の光景を思い浮かべながら話した。
駅前の小規模な書店に毎月買っていた漫画雑誌が並ぶのを心待ちにしていたり、同級生たちとよくコロッケを買って食べた精肉店、歳末のセール時になると街灯にぶら下げられたクリスマスの装飾など、浮かぶのはだいたい決まった場所や光景だった。それは写真みたいに固定されていて、それがほんとうにそのとき自分が見たものなのか、あとから定番のアイコンみたいに頭に記録されてしまったものなのか、もうわからない、とこのごろは思う。
生花店は五年ほど前に閉めてしまったが、今でも建物はそのままあり、住む人がいなくなっても荷物が置かれている。そこには家族のアルバムなどもあるはずで、探して開いて見れば、もしかしたら記憶の光景と実際の過去の風景は違っているのかもしれない。
あの家は、今も母が二、三か月に一度は行って掃除などはしているようだ。駒子は、昨年の同窓会で地元で集まったときに、ついでにと様子を見に行って以来、訪れていない。その日は、母は五年前から暮らす長野の小諸(こもろ)で過ごしていて、駒子と顔を合わせることはなかった。居酒屋で集まる前に、駒子は持っている鍵でシャッターを半分開けて中に入った。壁のスイッチを手探りで押すと、蛍光灯に照らされたコンクリートの床にスチールの棚が並び、プラスチックのケースや段ボール箱が積み上がっていた。昔、ここに色とりどりの花や鉢植えの緑が溢れていた面影はなく、ただの倉庫にしか見えなかった。特に用があるわけでもなかったし、寒かったので二階に上がる気はせず、外へ出た。正月のせいもあるが、営業しているのは駅の近くのコンビニやチェーンの飲食店くらいで、駒子の住んでいた家のある商店街の外れでは歩く人の姿もほとんどなかったし、アパートや戸建てに建て替わったところも多く、もう「商店街」という雰囲気でもなかった。
あの家に近々行かなければならない。それを駒子は、普段は考えないようにしている。家は借地に建っているが、一画にマンション建設の計画があって、家屋を手放すことを母が決めた。荷物の整理を手伝い、いる物があるなら持って行って、と母から言われているのだった。
ビールでは少し身体が冷えてきた気がして、駒子はお茶を入れようと電気ケトルをセットした。
千景が言った。
「バンドの人とか映画のこと、近所の人らは知ってはったんや」
「そもそも、そのバンドのドラムの人の親戚がうちの近くにアパート持ってて、そこの一室を改装してスタジオ代わりにしてたらしいんだよね。で、バンドの人たちがしょっちゅう商店街を歩いてて、花屋の前も通った、と。だから、情報源はその親戚の人じゃないかなあ。よくしゃべるおばさんだったって、なんとなーく記憶が」
その年配の夫婦は他にもいくつかアパートや貸店舗を持っていて、生花店に近い場所にあった不動産屋に度々(たびたび)顔を出していた。ガラスに貼られた間取り図の隙間から、応接セットに座ったおばさんがいつまでも話している姿が見えたのを、駒子はよく覚えていた。
「ネットがない時代の口コミって意外にすごいよなあ」
と、千景は自分が中学生の時に聞いた芸能人の噂話をいくつか話し、それから、千景が生まれたころに起きた、女子高生の会話から信用金庫の取り付け騒ぎが起きた事件の話をした。ほうじ茶も二杯目になってから話題がようやく元のところに戻っていった。
「こまっくが次に土日休みになるときっていつやっけ? その映画の鑑賞会せな」
「そうだねえ」
千景にいっしょに映画を観てほしいと言ったのは駒子だったが、観たいような観たくないような気持ちは日によって移ろい、休みの日が合わないこともあって先延ばしにしたままだった。千景も駒子の気持ちはなんとなく感じとっていたので、今日のように千景が早く仕事が終わった日に観ようとまでは提案しなかったが、駒子の話を聞いて興味は増しているようだった。
駒子はスマホのカレンダーで勤務予定を確かめ、再来週の日曜が休みになると告げた。
千景も自分のスマホを見て、その日なら、と言ったあと、ふと思い出して駒子を見た。
「取材したいとか言うてた同級生はどうしたん?」
先月、駒子の小学校の同級生で今はテレビドラマの制作に関わる小松原大哉(だいや)が、母親が働いていた人に話を聞きたいと連絡してきた。そのことも、マイマイ長谷部(はせべ)からの質問攻撃とともに、あの映画やエッセイのことと母や家族のことを思い出さざるを得ない状況にしている要因だった。
「あー、まあ、なんか、ちょっと会ってみる感じにはなってる」
忙しいからと返事を曖昧に延ばしていたが、大哉のほうは妙に熱心で、少し話すだけでも、などと繰り返し連絡があり、ひょっとしたらそれにかこつけての勧誘かなにかかと疑ってしまうくらいだと、駒子は言った。
千景は腕組みして、そうやなあ、と呟いてから、言った。
「私、いっしょに行こか?」
「え、なんで?」
千景がテーブルに身を乗り出す。
「それこそ勧誘やったらがっつり阻止(そし)するし、ほんまにドラマのためにお母さんのこと聞くんでもこまっくが答えたくなさそうやったら私が横から止めれるし。こまっく、そういうのびしっと言えへんほうやろ」
「まあ、そうだね。マイマイにも結局ある程度は話しちゃってるしなあ」
「せやろ。あ、私、行ってみたい中華の店あって、だからいっしょにってことでどう? 中華は人数おったほうがおいしいやろ?」
千景は乗り気で言って、その店をスマホで表示して駒子に見せた。料理の画像を拡大する千景の楽しげな顔に、駒子は笑ってしまい、それもいいかもしれないと考えた。
千景から店の情報を送ってもらって、大哉に提案してみることにした。
「そのバンドの人の本、マイマイから借りへんかってんやんな?」
楽しそうな空気のまま、千景が聞いた。
「こまっくは読みたくないやろうし、借りてほしいとまでは言われへんけども、ちょーっ と、読みたかったかもなーと、思わんこともないかなー」
「あははは。そんな、持って回った言い方、千景さんにはめずらしい」
駒子のほうも、千景の好奇心に触発されて気が軽くなった。
「だってその本、今、普通には売ってないやろ?」
「そうだねえ。古書で探すしかなさそう」
「そこまでするのもなあ」
と言った千景に、駒子は頷く。
脳裏にはまた、長谷部が手にしていた深緑色の本がくっきりと浮かぶ。
「サインのとこに、1999年て書いてあってさ」
テーブルの上ですっかり空になってしまった皿やビール缶を見やりつつ、駒子は話した。
「そのときって、マイマイさんはたぶん三十歳ぐらいで、私は中学二年かな? 九九年って一応世界が滅ぶ的な予言があったじゃん? 私はあんまりそんな記憶ないんだけど、千景さんくらいの年の、前の職場にいた男の人が、一九九九年で地球が滅亡すると思ってたから将来のことはなにも考えてなかった、大学入って就職してだんだんその年が近づいて来たのになんも起こりそうにないから、やべえ、もっと真剣に考えて就職すればよかったって焦った、とか言ってて。もちろん冗談ぽくではあるけど、そんなことあるかな?」
駒子の話に笑って相槌を打っていた千景が言った。
「そんなこと言うてる子もおると言えばおったけどなあ、まさか本気で言うてるとは思ったことなかったで、私自身は。滅亡するほうも、だから将来のこと考えんでもいいっていうのも、両方な。私は、そんな遠くて突拍子もないことより、今日の生活のほうが切羽詰まってたからなあ」
家にお金の余裕がなかったから大学に行くことは考えられなかったと、千景は何度か駒子に話していた。情報系の専門学校を選んだのも、興味があったからではなく、就職が堅そう、家から通いやすい、その中で学費が安いところ、の条件が合ったのがその学校やったんやけど、こんな世の中で仕事だけはずっとできてるから仕事に関しては見る目があったんちゃうかな、と言っていた。
窓のほうに視線をさまよわせつつ、千景は続けた。
「でも、漫画とか映画もやたらと人類滅亡してその後、みたいな話多かったし、核戦争がほんまに起きるかもって怖さもまだリアルやったなとは思う。なにか起きてリセットされたら、ってことに期待を抱く子もおったんかなっていうのは、わかる」
駒子は、中学で友達と回し読みしていた『ドラゴンヘッド』の漫画の場面を、急に思い出した。人類滅亡や世界が終わるというイメージから、たとえば映画の『アルマゲドン』で起こるドラマティックでインパクトのある危機を想像していたが、確かに『ドラゴンヘッド』を読んでいたあの時期はちょうど九〇年代の終わりで、地球全体の大惨事は予期しなくても、刹那的(せつなてき)な空気があったとは思う。やたらとテーマ曲が街で流れていた『アルマゲドン』みたいにヒーローが危機を救うストーリーでなく、身の回りの生活や人間関係が壊れていくというか、壊れてしまえばいいのに、という願望のようなもの。千景が言った、なにかが起きてリセットされることに期待を抱く感じ、は確かに友人たちにも自分にも、あったと、今、思い出してみると気がつく。
「言われてみたら、そういう感じはあったかも」
「時間が経つと、そういう時代の実感みたいなんて忘れてまうよな。『明日の世界』はこまっくと観る予定やからおいてあるけど、検索してておすすめに出てきた映画ちょっと観てもうて」
千景は、配信サービスにあった映画のタイトルをいくつかあげたが、駒子には聞いたことあるようなないようなというくらいだった。さらに千景が主演の女優の名前を言って、やっとイメージができた。
「いやー、そうやろうとは思ったけどさ、実際観てみたら、女の子の扱いがひどいっていうか、それはないわー、ってのが多くて。やたらと脱がされて、昔の週刊誌に『濡れ場に体当たり演技!』って見出しつけられてた感じのはもちろんどうかと思うけどさ、アイドルが主演の淡い恋物語みたいなほうも言うてることがあほみたいっていうか。もう、やだあ、ユウコったら、みたいな」
千景は、手で誰かの肩を叩くしぐさや、上半身を傾けてしなだれかかる様子を再現して見せた。
「でも、その映画な、私、観に行ってたんよ。公開のときに近所の子に誘われて、京都の新京極らへんの映画館やったかな。中一ぐらいやったから、友達のおねえちゃんもいっしょに行って。そのアイドルはかわいかったし、友達と大学生のおねえちゃんと出かけたのが楽しかったからいい思い出になってて。まあ、映画の中のことやから現実とは違うと思ってたんか、そもそも京都やから共通語のセリフ自体が別世界のもので気にならんかったんかもしらんけど、今観たら、女の子の会話とか行動とかこんなにあほみたいやったんや、ってびっくりして」
「あほみたい……」
「ああ、ごめんな、言い方が悪いか。なんて言うたらええんやろ、恋愛のことしか考えてない、いや、というよりも、世間のことなんかなんにも知らないってひたすら強調してるように見えて。女の子は何も知らなくて純粋なのがいちばん! て考えてるんやろうなと。でもいちおう、その映画、有名な監督が撮ってて、当時は単にアイドル映画って感じでなくて名作って言われてたと思う」
「なんかわかるような」
「観て、っておすすめできへんのが難しいとこやな。興味あって、時間あったら。まあ、今の感覚で過去のものをああだこうだ言うのは簡単やし、映画全体をそこだけで決めつけるつもりもないねんけどな。自分のほうも感覚が変わったからそう思えてしまうんやし、こっちが忘れてたのに同じものを観て好き勝手言うてるだけとも言えるし」
「マイマイさんもそんなこと言ってたかも。久しぶりに観たら、こんな場面あったかなって思ったって」
「そんなもんやんな、人間の記憶とか感覚って」
千景の言葉に、駒子も深く頷いた。
「考えてみたら、自分が子供の時ってもう、三十年前、四十年前やもんな。こわ!」
「ほんとだよー!」
ひとしきり二人で笑ったあと、ふと静かになり、千景がつぶやいた。
「そんな長いあいだ、よう生きてきたな、って思う」
駒子はなにも言わずに千景の顔を見た。
「私は、ずっと、自分が生きてることが間違ってるって思ってて、生きててもいいかわからんかったけど、なんか、生きれてしまうもんなんやな」
窓の外、どこか遠くで救急車のサイレンが過ぎるのが聞こえ、また静かになった。
千景が帰ってから、駒子が本のタイトルで検索してみると、数冊表示された古書は元の値段よりも高値が付いていた。驚くような高額ではなかったが、複雑な感情を抱いている自分がわざわざ買うにはどれも高すぎる値段だった。
『明日の世界』の監督が昨年特集上映などもされて少し話題になっていたので、原作であるこの本も読みたい人がいるのかもしれない。
三十年近く前に読んだきりなので、内容はうろ覚えだった。それに、長谷部の話のとおり、昔読んだ本や観た映画などをだいぶ時間が経ってから読み直したり観直したりすると記憶とは違っているのもときどきあることだ。エッセイの中で「花屋の女の子」がどう書かれていたか確かめたい気持ちもなくはなかったが、今さらマイマイ長谷部に貸してほしいとは言いたくなかった。図書館にあるかな、と近くの図書館の蔵書も検索してみたが、見つからなかった。
ノートパソコンを開いたついでに、マイマイ長谷部の動画チャンネルを観てみた。
一日前の日付けで、新しい動画がアップされていた。
いつものセンスのいいキッチンで、長谷部は近所のコンビニを回って買ってきたこの秋の新商品のカップラーメン二つを、コラボしているラーメン店の解説やパッケージのデザインの感想を述べつつ開封し、琺瑯(ほうろう)のやかんからお湯をゆっくり注いだ。
そしておもむろに壁際に置いてあったアコースティックギターを抱え、スツールに腰掛ける。
「それでは、三分待つ間、ぼくの新曲を聴いてください」
曲はラーメンとは関係がないようで、子供が小さい頃に動物園に行ったことが歌われていた。たわいない会話が元になったシンプルな歌だった。
ベースもギターも弾けて、文章も書いて動画も作って、器用な人なんやなあ、と千景が言っていたが、それはそうなんだろうと駒子も思う。音楽教室の講師の仕事も気楽そうに見えてきっちりやっているし、彼のおかげでうまくなったとよろこぶ生徒も多い。
駒子は、長谷部が歌い終わり、できあがった二つのカップラーメンの麺やスープをポケモンに喩(たと)えながら食べ終わるまで、動画を観た。
(つづく)

