竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

 

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「先生、先生はご自身が考えておられるよりずっと深く、ややこしく、吉原と絡んでおられます。しかも、根のところで、です」
「根のところで……」
「さようです。吉原は幻の花と称えられます。徒花とも言われます。そうでしょう。現にはない美しさと艶やかさを誇る場所でございますからね。その幻の花を大輪のまま咲かせ続けるためには、根が要ります。現に深く食い込んだ根がね」
 おゑんは生唾を呑んだ。
 平左衛門がこれから何を語ろうとするのか、想像できない。してはならない気にもなる。
「先生はそこのところに絡んでおられるのですよ。人の目には触れない、吉原の根、闇のところにね。これまで、先生にはお世話になりました。吉原の窮地を救うてくださったと思っております」
「……美濃屋さんの先の番頭さんの件ですか」
 そういえば、あの男は吉原に火を放とうとしていた。吉原炎上を企てたのだ。
「それもあります。諸々ですよ、先生。先生は吉原の闇に深く絡まってしまわれました。先生が燃えれば、吉原も燃えます。どうかそれをお忘れなきように」
 平左衛門が頭を下げる。
 そうか、これだったのか。
 これを伝えたくて、惣名主はあたしをここに誘ったのか。
 おまえは吉原の闇を知った者なのだ。そういう者を探ろうとする輩がいるのなら、吉原は容赦なく取り除くし、潰す。
 おゑんは胸元の皺を帯に落とし込んだ。
 背筋を伸ばす。
「わかりました、川口屋さん。では、甲三郎さんのお調べを待つことにしましょう。今のままでは、あたしは……あたしも川口屋さんも、まるで動けませんからね。下手に足掻いても疲れるだけ、無駄なだけです」
 平左衛門が頷く。その目はおゑんを見据えていた。
「もう一度、お尋ねします。先生にお心当たりはないのですね」
「全く、ありませんね」
「そうですか。では、先生から糸口を探すのは難しいですな」
「ええ、申し訳ないですが、まるで役に立ちません。なにしろ、“役者の治兵衛”が殺されたことも、へのへのもへじについても、ついさっき、花魁から聞いたばかりなので。思案が追い付きません。ただ、本当に心当たりはないのです。あたしもね、根っからの善人だと胸を張れるような生き方はしてやしません。他人に怨まれることも、煙たがられることも、嫌がられることもたっぷりやってきましたよ。けどねえ、吉原絡みでとなると、あたしなりに気を付けてもきて……」
 ぱちっ。頭の隅で火花が散った。
 もしかしたら……。いや、まさか。
「今に心当たりがないなら、来し方はいかがです」
「えっ、あたしの、ですか」
 平左衛門が苦笑した。そうすると、妙に人懐っこい顔つきになる。もちろん、そう見えるだけだ。この男は他人との間合いをきっちり見極める。遠過ぎもせず近過ぎもせず、冷ややかな隔たりを保てるのだ。
 おイノとはどんな夫婦だったのか。まるで、思い浮かばない。
「先生のですよ。決まっているじゃないですか。今、誰の話をしております」
「あぁ、そうですよね。頓珍漢なことを申しました。お恥ずかしい」
「何か考えておられましたかな」
「いえ、これといって別に……」
 平左衛門の双眸に窺うような光が過った。過って、すぐに消えた。
「先生の来し方、過去にございませんか。男たちに穿鑿(せんさく)され、探られるような何事かが」
「星の数ほどござんすよ。あまりに多過ぎて思い出すのも難儀なぐらいです。一つ一つ挙げていけば、明日の朝まで掛かるかもしれませんが、惣名主にそれほどの暇(いとま)はござんせんね。なので、涙を呑んで控えさせていただきますよ」
 平左衛門が珍しく言葉を詰まらせた。口を一文字に結び、暫く黙り込む。その後、心持ち前屈みになると、吹き出した。
「ははははは、なるほど、先生らしいお答えだ。ははははは」
 乾いた軽やかな笑声が、開け放した障子戸から庭へと流れ出ていく。
「これは、一本取られました。先生、お見通しだったわけだ」
「はて、何のことでしょうか」
「いやいや、もう、お惚(とぼ)けは無しにしてください。ええ、そうですよ。先生の来し方を聞きたいと望んだのは、わたしの勝手です。このたびの一件と結び付けはしましたが、本当はわたしが聞きたかったのですよ。先生が吉原に流れ着くまでに、どんな過去があったのか」
「川口屋さん、あたし、ここに流れ着いたりしていませんよ。あたしには帰る家も為すべき仕事も仲間もおります。吉原で生きようなんて考えちゃおりません」
「ああ、そうでした、そうでした。これはまた、失礼をいたしました。ただねえ、大層困ったことに、わたしは先生を大門の外の方として考えていない節がありましてな。ええ、頭ではわかっておるのですが、気持ちが納得いたしません。さっき申しましたように、根っ子が絡んでいると思えてならないのですよ」
「それは、そちらの見積もりでござんしょう。あたしは、惣名主と絡んで生きていきたいなんて、空恐ろしいこと考えたりはいたしません。というより、御免被りますよ」
 平左衛門は笑顔で何度も相槌を打つ。ただ、目は笑っていない。吉原惣名主、川口屋平左衛門を相手にして、こうまではっきり拒み通すとは我ながら度胸がある。ただ、言うべきことを抑え込み、平左衛門に脅されたまま引き下がるわけにはいかないのだ。
 吉原の闇を知っている。闇の中で蠢いた幾つかの事件に関わった。血も流れたし、人の命も散った。人間の業が剥き出しになり、愚かさが露(あらわ)になる。そして、それらを全部呑み込み、覆い隠し、吉原はここにある。
 だからどうだと言うのだ。吉原がどうあれ、あたしにはあたしの生き方ってものがある。ですから、そう容易く呑み込まれはしませんよ。
 わかってもらわなきゃなりませんねえ、惣名主。
 足音がした。わざと音を立てている、そんな歩き方だ。
「まあまあ、楽しそうに、お話が弾んでいらっしゃいますねえ」
 おイノが障子の陰から現れた。膝をつき、おゑんに笑みを向ける。
「平左衛門さんが、声を上げて笑うなんて珍しいですねえ」
「ああ、そうだ。先生は本当に楽しいお方でなあ。こうやって、しゃべり合っているだけで命の洗い張りができる気がする。先生、お引き止めして申し訳ありませんでしたな。これに懲りず、また、年寄りの話し相手になってください。お願いいたします」
「もちろん、喜んで……と言いたいのですけれど、あたしには、あまりに荷の重過ぎる役回りですねえ。些か疲れましたよ。でも、ええ……気は張りましたが楽しくもありました。滅多に味わえない異国のお酒までご馳走になり、御礼、申し上げます」
「先生、これをお持ち帰りくださいますか」
 おイノが風呂敷包みを差し出す。細長い瓶の口が結び目から覗いていた。
「珍陀酒と小魚の甘露煮です」
「まあ、何て果報でしょう。遠慮なくいただきます。家の者がどれほど喜ぶか。おイノさん、ありがとうございます」
 末音とお春の姿が浮かび、声が弾んだ。不思議な味わいの酒をあの二人は、どう飲み、どう称するだろうか。もしかしたら、末音は飲んだ覚えがあるかもしれない。
「はい、先生に喜んでいただけて何よりです。外に駕籠(かご)が来ております。平左衛門さんのお心配りだそうですよ。どうぞ、お使いくださいな」
「重ね重ね、ありがたいことですね、では、遠慮なく」
 立ち上がる。できれば、このまま走って逃げたい気分だ。お小夜さえいなければ、この地とすっぱり縁を断ちたい気にもなる。
 それはもう許されない。
 平左衛門に、引導を渡されたばかりだ。
「先生」
 引導を渡した男が呼び止める。
「何かわかり次第、甲三郎を使いに出します。先生も何かありましたら、お報せください」
「心得ました」
 おゑんは風呂敷包みを手に座敷を出る。平左衛門は見送ろうとはしなかった。 
 何が始まるのか――。
 夜の気配に包まれる前の吉原は静かで、少しくすんで見える。
 このまま終わるわけがないとしたら、何が始まるのか。
 駕籠に揺られながら、思案する。
 心当たり、来し方、吉原の闇、絡んだ根……。
 目を閉じる。駕籠かきたちの掛け声を聞くともなく聞く。
 ぱちっ。今度は瞼の裏で火花が散った。紅色の火の粉が四方に飛ぶ。
 あれ……だろうか。
 おゑんは静かに息を吐いた。

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