甲三郎は暫くの間、黙り込んだ。茶をすすり、もう一度、おゑんを見やる。
「じゃあ、毒ならどうでやす」
おゑんとお春と末音は、顔を見合わせた後、その顔を揃って甲三郎に向けた。
「そうですね。あたしたちも考えましたよ。痛みを消すための薬としてはまだまだ調べも工夫も入り用だけれど、毒としてなら、もう少し容易く、早く、使えるようになるんじゃないかとね。そうだろ、末音」
「はい。毒となるものを取り除くのではなく、そのまま毒として使うなら、そう難しゅうはございませんでしょうの。前にも申しましたが、何回にも分けて殺す相手に飲ませれば、おそらく……おそらくではございますが、心の臓が止まり、不意の病によって亡くなるのと寸分違わぬ殺し方ができるのではないか。むろん、相手の身体つきや年齢、持病の有る無しなどで飲ませる量や回数は変わってきましょうが、毒殺でありながら病死に見せかけられる。暗殺の薬としてはなかなかの優れものやもしれません。と、このようにおゑんさまはお考えのようですの」
「あたしだけじゃないだろう。おまえだって、同じことを考えていたじゃないか」
「さようで。まあ、そのあたりはどうでもよろしいが、ともかく、並の毒薬とは違う。あまりに恐ろしい本性を持つ。それが越冬虫でございますの」
甲三郎が真顔で頷く。
「へえ……。なるほど、背筋が寒くなるような話でやすね。けど、そういう毒薬なら、欲しい者、手に入れたいと望む者は案外、多いかもしれやせんね」
「そうだね。お武家にも町人にも、欲しがる者はいるでしょうね」
「つまり、相当の金になると……」
おゑんは首を傾げた。
「どうでしょうか。品として売りさばくとなると、また、別の面倒があるんじゃないですか。まさか、大道で売り歩くわけにもいかないでしょうしね。ただ、まあ……そうですね。今まで手にしたことのない新しい薬。医者にとって、それが大層心惹かれるものであるのは確かです。幻の宝のようなものですからね」
「宝ねえ……。では、やはり、治兵衛の後ろには医者が控えていたのかもしれやせんね」
甲三郎が腕を組み、考え込む。お春が身じろぎした。
「あの、よろしいですか。えっと……あの、その治兵衛を名乗る男は、おゑんさんと越冬虫の関わりを知っていて、それで、おゑんさんのことを探っていたってわけですよね」
「ああ、そう考えるのが筋だろうね。あたしに懸想したって筋は、お春さんも末音も笑い飛ばしたからねえ。無しってことになるのかね」
「いえ、あの……でも、そちらの筋の方が現に沿っているようにも思えてきて……。だって、その治兵衛さんは吉原の外の人だったのでしょう。なのに、越冬虫が絡んだあの事件を知っていたなんてあり得るんでしょうか」
「そこだね」
そう、まさにそこだ。誰がどうやって、あの事件を知り得たのか。
「甲三郎さん」
「へい」
「今のお春さんの言ったこと、どう思います」
返事はなかった。おゑんは若い男の、やや俯き加減の顔を見る。
「心当たりがあるんですね。それを今ここではしゃべれない。そういうところですか」
甲三郎が顔を上げる。
「そうじゃありやせん。心当たりと呼ばれるほど確かなものじゃねえんで。ただ……」
「ただ?」
「あっしなりに思うところはありやす。けど、それを先生にお報せできるところまでは詰め切れていねえんで」
思うところ? はて、それは何なのか。今のところ、おゑんには見当がつかない。
甲三郎は湯呑を置き、背筋を伸ばした。
「吉原が秘していた一件が外に漏れたのが事実なら、由々しきことだ。誰の仕業か、必ず探り出せ。惣名主からは厳しく命じられておりやす」
川口屋平左衛門は、既に医者と越冬虫と治兵衛殺しを結び付けている。
つまり、甲三郎は、おゑんたちより先に平左衛門にお房から聞き取った諸々を伝えたわけだ。当然と言えば当然だろう。平左衛門も甲三郎も吉原を住処とする。平左衛門は惣名主であり、甲三郎は首代として生きているのだ。とすれば、自分の知り得たことを誰より先に惣名主に告げるのは、当たり前ではないか。首代が従うのは、吉原を束ねる惣名主の指図、それのみなのだから。
そこを心しておかねばと、おゑんは己に言い聞かす。
甲三郎がおゑんたちを裏切るとは思わない。けれど、惣名主の意に逆らってまで、こちら側に付くとも信じ切れない。
おゑんは軽く胸を押さえた。
あたしはいつか、川口屋さんや甲三郎さんが敵になると、考えているのだろうか。吉原を敵に回す? あるいは吉原から敵とみなされる?
そんなことがあり得るだろうか。いや、まさか。まさか、まさか……。けれど、人の世には、その“まさか”が溢れている。
末音が新しい茶を淹れる。前のものより笹の香りが濃い。
「米沢町」と、聞こえた。甲三郎が呟いたのだ。
末音の、口元まで湯呑を運んでいた動きが止まる。
「米沢町? あの町がどうかしましたか」
おゑんは情を抑え、何気ない風に問う。
「先生は、よくご存じですかい」
「米沢町ですか。そうですねえ、昔、暫くの間、住んでいたことがありますよ」
おゑんの誤魔化しが通用する相手ではない。だから、正直に告げる。顔色も変えず、動揺した素振りも見せず、冷めた物言いで告げるのだ。それくらいの芝居はできる。
「それは、いつごろのことで」
甲三郎が、やや前屈みになる。
おゑんはわざと眉を強く寄せ、渋面を作る。
「ずい分と前になりますが。甲三郎さん、あたしの昔を穿ってどうするんです」
「あ、いや、すいやせん。その……ぐでんぐでんに酔っぱらった治兵衛が『金の出所は米沢町さ』と、何度も繰り返していたそうなんで。お房の姉さんが米沢町の職人に嫁いでいるので、つい、耳に入ってきたとか言ってやした」
「それで?」
「それだけでやす」
おゑんの口調の冷ややかさに身を縮め、甲三郎は頭を下げた。
「すいやせん。別に、先生を探る気なんてこれっぽっちもなかったんですが」
「見え透いた嘘をお言いでないよ」
と、笑ってみせる。
「治兵衛はあたしのことを探っていたんでしょう。そこに、医者の影だの越冬虫だのが絡んできたら、川口屋さんと甲三郎さんがあたしを疑ってもおかしかありませんよ」
「えっ、いや、違えやす。あっしが先生を疑うなんて、そんなことあるわけねえでしょう」
「じゃあ、川口屋さんは疑っているわけですね」
「疑っちゃあいやせんよ。ただ、惣名主からは、先生には、あっしたちが掴めきれていないところが思いの外多い……とは言われやした。で、その、あっしとしては、そこを減らしてえというか……少しでも知りてえとも思っていて……」
「あらまあ、おゑんさんのことを知りたいわけですか。やだ、何て正直なんでしょ」
お春が笑う。甲三郎が「お春さん、なんで笑うんでやすか」と頬を染める。一見、穏やかで温もりのある光景だ。誰もが優しく、楽しげに見えてしまう。けれど、この光景は反転する。すれば、おそらく、穏やかさとも優しさとも無縁の場面が現れる。
末音と目が合う。
そうか、米沢町か。そう、きたか。
なすがままに流されるのも、あやふやな未来を座して待つのも性に合わない。
「打って出ますかね」
口に出して呟く。甲三郎の表情が瞬時に引き締まる。
おゑんは笹の香りのする茶を飲み干した。
「こちらでございます」
奥まった一室の前で、伊野屋の主は足を止めた。
「どうぞ、会ってやってください」
障子を横に滑らせる。
寸の間、障子の向こうが暗い穴に見えた。












