夢の外側18
9 母の話と父の話(承前)
仕事中に千景(ちかげ)から駒子(こまこ)にメッセージが届き、急な用事で三、四日京都に帰るので部屋の様子を見ておいてほしいと頼まれた。千景の部屋の鍵が駒子の部屋のポストに入っていて、翌日に家の中を一通り確かめたあとは、駒子は郵便物の確認だけしていた。
戻ってくる予定の四日目に京都滞在が三日ほど延びると連絡があり、なにかあったのかと案じていたところ、日曜の夕方に千景は帰ってきた。
駒子は仕事帰りに、一階の千景の部屋に立ち寄った。千景は、持ち帰った荷物の片付けをしていたが、駒子が来るとすぐお茶と阿闍梨餅を出してくれた。
「なんかいろいろややこしくなったから帰ってから話そうと思ったんやけど、ごめんなー。実は、父親が亡くなってね。水曜にお葬式やって、そのあともなんやかんやと」
「そうだったんだ。ご家族になにかあったのかなとは、心配してたんだけど……」
急な用事、とメッセージを読んだときから、駒子はなんとなくそんな気がしていた。そして、もしそうだとしても、千景は「用事」が終わるまで詳しいことは言わないだろう、ともわかっていた。
開けた窓から入ってくる夜風は、涼しいというほどではないがさらっと乾いている。昼間はずいぶん暑いが、まだ夏の暑さではない。もうすぐ雨の季節になると思うと、駒子は少し憂鬱になった。
「もう何年も会うてへんくて。最後はいつやったか、たぶん七年ぐらい前かな」
千景の声は、ちょっとした知り合いのことを話すくらいの淡々とした調子だった。
「離婚はしてなかったけど、母もめったに会うてないって聞いてたんやけどね。四、五年前に父が体調崩してから、ほとんど毎週世話しに行ってたみたいで」
「そうかー。お父さんの世話をしに行ってることは、千景さんには言ってなかったんだ」
「言うたら私に怒られると思ったから、やって。私のせいにせんといてほしいわ。後から知らされるほうが余計いややし」
千景は、軽く笑い、それはとうの昔にあきらめてしまった何かに対する笑いだった。
「お父さんは、前に聞いた飲み屋をやってたお家に住んでたの?」
「そう。体調悪くなってからも、飲み仲間が来てて、お酒止められてんのにときどき飲んでたらしい。まあ、好きなことして死んで、ええ人生やったんちゃう? って感じ」
「そうだねえ」
彼がどんな人だったのか見てみたかったな、と駒子は思った。単なる好奇心もあるが、自分の父親とかなり違うタイプのように思えて、千景の話からだけでは想像しきれない部分が大きかったからだった。
「葬儀自体は母がちょっと前から準備してて、流れ作業って感じに進んだんやけど、父が住んでた家をどうするかとか、借金がないかとか、向こうにおるあいだに片付けといたほうがいいことはできるだけやっとこうと。目処がついてさあ帰ろうと思ったら母が体調崩して。二日ほど休んでたら落ち着いてきたし、近所に昔働いてた病院の看護師仲間の人がいて、様子を見てなにかあったらすぐ連絡してくれるって言わはるからとりあえず帰ってきたんやけど。
やっぱり、母にとっては父のことが生きる張り合いやってんやろなーと思ってさ。そやから、この先が心配っていうか不安ていうか」
「そうね。そんなに長く夫婦って関係だった人が死んでいなくなるって、やっぱりすごく大きいことだろうから。それは、他の人からは量れないよね。子供でも」
父の葬儀で泣き叫んでいた母の姿が、駒子の頭に浮かんだ。フラワーアレンジメントの教室はすぐに再開して、仕事のあいだは普段と変わらない様子だったが、その後は駒子に会うたびになにかにつけ、お父さんがいないからなにもできない、したくない、と言うようになった。言われると、駒子が母をなだめたり慰めたりしなければならなくなり、母をおいて死んだ父のことを恨めしく思ったりもした。長野に移って新しい仕事をすることになってからようやく父のことをあまり言わなくなったが、それは父のことを考えないようにしているだけなのではないかと、花屋の建物の片付けをやるようになってわかってきた。
「このあいだ読んでた中井久夫って精神科医の人の本の中に、夫婦関係は二者関係だから、成人的な三者関係をこなせない人でも夫婦にはなれる、そういう夫婦の関係には権力闘争みたいな面がある、って書いてあって。なんだか妙に納得したんだよね。権力闘争かあ、って」
駒子の話を、神妙な面持ちで聞いていた千景は、大きく息をついてから言った。
「三者関係がこなせない人でも二者関係なら、か。なるほどねえ。だから、職場でコミュニケーション難しい人が急に結婚して、えー、あの人と結婚するってよっぽど面倒見のええ人がおるねんなあ、って同僚の間で不思議がられる、みたいなことがようあるんや。あの人とあの人が? てやつも」
「そうなんだよね。それで、意外な組み合わせだけどなんかずっとうまくいってる人もいるしさ、逆にどちらも仕事や友達関係ではよくできた人でもすぐ別れたり、後から聞いたら大変なことになってたって人もいるよね」
うんうん、とうなずく千景と、いくつか実例を話し合った後、駒子は言った。
「それを読んでから考えてたんだけど。二人の力関係の争いになって、それ自体が大変だろうし、ときにはDVだとかモラハラだとか、うちみたいに母が感情的に爆発することを繰り返して父がなだめるのを愛情だと思って、お互いにこの人は自分がいないとやっていけないんだって世界を作ってしまってても、ある程度は本人たちの責任ではあるというか。
もちろん、身体的にも精神的にも暴力を受けてる人は助けられる手段があってほしいし、自分の身近な人がそういう関係になってしまってたら、なんとか離れられるようにしたいって思う。
それはそうなんだけど、傍から見たら難儀な関係でしかなくても、その二者関係の中で起きたことに対してある程度は本人たちが引き受けないといけない部分はあると思うんだよね」
話しながら、駒子は花屋の二階の光景を思い出していた。あんな狭いところに家族で何年も暮らしていたとは、今では信じられない。一人になれる空間はもちろんなく、母の苛立ちや怒りや、父の視線や、兄の不機嫌や、祖母の無言を、家にいるあいだじゅう感じ続けなければならなかった。
「二者関係なんだったら本人たちはそれでもよかったかもしれないけど、私を巻き込まないでほしかった。子供の私を」
声に力を込めたが、最後のほうは震えてしまった。
「そうやな……。私も、あの二人の関係に、生まれる前から巻き込まれてたんやもんな」
千景は溜息交じりに言い、しばらく沈黙があった。
「もっとはっきり言うとね、私は、二人の関係の踏み台になってたんじゃないかと思う。二人が、愛し合う幸せな結婚をしたっていう物語を維持するために」
駒子は、花屋の二階の荷物整理のことで兄に連絡をしたこと、父が駒子が母の〝標的〞になっていたと言ったらしいことを千景に話した。父が兄の保険料を払ったり仕送りをしていたことは話せなかった。とうに過ぎた過去のことを僻んでいるだけじゃないかと、誰かの声が心の中で聞こえてきて、考えれば考えるほど自己嫌悪に陥ってしまうのだった。
「それはないわ。標的、なんて言うんやったら、その状況をなんとかしろよ、って思うわ。あんた、親やん、って」
「私が〝標的〞になる前は、父が言うところの母の病気は、全部父に向かってた。それが母の感情が私に向かって激しくなることで、父はなだめ役に回って、母も父からなだめられることを、お互いの愛の確認みたいなパターンにしてしまってたんだな、って。
これは、今の私が私のために解釈した物語なんだとはわかってる。でも、そういうふうにでも考えないと、なんで自分が怒鳴られたり大事な物を壊されたりして、それでも誰も助けてくれなかったのか、わからないから」
「そうやね。こまっくが、こまっくのために考えることができたらいいと思う」
千景はそう言ってしばらくなにか考えているようだった。
駒子は手元のカップを見た。お茶の表面が天井の照明を反射していた。
千景は立ち上がって窓を閉めに行き、そのまま窓際で話した。
「……私なんかもう五十になってさ、結婚も一回して、子供も二人産んで、離婚して家を出て、一人で生活して二十年近く経って……。
自分が今の私なんは、自分自身の考えてきたこと、やってきたことの結果なんやな、とは思ってる。
父が死んでもどこか他人事っぽい感覚になってしまうし、母が私に怒られるんちゃうかっておどおどしながら実はお父さんの面倒みてたんやって言われても、ああ、そんなことやと思ったわ、って別になんの感情も湧いてけえへんかった。
でも、人間としての生活のすごい初期のほうで刷り込まれてしまったことは消えてはくれへん。そこがスタート地点というか、基本仕様になる。基本仕様の上に自分でなんか足すとか引くとかしていくしかないんやな、って思う」
「そうだね。ほんと、そう……」
駒子はお茶を飲み干し、千景の片付けを手伝った。
翌週の水曜に、駒子は中島麗子(れいこ)に会った。
事務手続きで本部に行く用があり、その前に、麗子が指定したS教室に近い喫茶店に寄った。
おそらく、麗子と母が知り合ったころからあると思われる喫茶店は、カウンターにコーヒーのサイフォンが並び、ジャカード織の椅子は端が擦り切れていた。
いちばん奥の窓際のテーブル席に、麗子は座っていた。
「ごめんなさいねえ、わざわざ呼び出しちゃって」
よく通る声の麗子は、朱色のブラウスに花柄のロングスカートで、渋い色味の店内で目立っていた。
「駒子ちゃんが所長だなんて。いえ、駒子ちゃんなんて言ったら失礼よね。原田さん? 駒子さん? なんて呼んだらいいかしら」
「なんでも、だいじょうぶです」
駒子がコーヒーを注文すると、麗子も二杯目を頼んだ。他の客は、昔から来ているらしき年配の男性たちと、この店の名物のプリンアラモードをSNSに載せたい若い女の子のグループとが半々という感じだった。
「少し前に、観たのよ、あの映画。それで、いろいろ懐かしくなって。懐かしいだけじゃなくて、今になって思い出すこともあったりして。
真莉(まり)ちゃんに会って話したいなって思ったんだけど、今の連絡先は知らないし、駒子ちゃん、ずっと前に私と話したときに、昔の話を知ってるのか、気にしてたでしょ?」
二杯目のコーヒーに砂糖を入れてかき回しながら、麗子は微笑んだ。
「麗子さんは、あの映画が公開されたときに観てたんですか?」
「そうよ。行ったことない映画館をわざわざ調べたんだから。道に迷っちゃって、着いたら始まりかけてて、周りの人に迷惑がられながら席に着いたの、よく覚えてるわ」
麗子は懐かしそうに話した。
「その映画館で観たときにもね、あー、真莉ちゃん、というか、真莉ちゃんみたいな女の子が好きな男って、こういう感じよね、って思ったの。天使とか巫女とかやたら神秘化して、振り回されると喜んじゃってさ、それなのに悪女扱いするの」
表情豊かに話す麗子に同意して、駒子は笑った。
「ほんとそうでしたね。友達といっしょに、ツッコミ入れながら観ました」
緊張が解けると空腹を感じて、シナモントーストを頼むことにした。麗子は、コーヒーだけでいいと言った。
「三十年経って観ると、懐かしいこともあったりするわね。いくつか、ロケで使われてたライブハウスは私も演奏したことがあるところだったし、みんなとっくになくなっちゃったから」
麗子の思い出話を少し聞いた後、駒子は言った。
「私は、マリアは、母とはかなり違うって思いました」
「そうね、違うわね。監督は、あのミーコってちょっと変わった歌手の子をどうしても出演させたくてあの映画を作ったみたいだから、ミーコのほうが近いんじゃない? ミーコというか、監督が思い描いてたミーコ、かな」
それは駒子の想像した通りだった。
「マイマイさんに、マリアはバンドメンバーを二股かけてたみたいなこと言われたんですけど、そういう話、聞いたことありましたか?」
「すごく美人な子とか、それこそ、天使だなんだって持ち上げるような女の子に対して、 実際に口説いたりちゃんとつき合おうとする男ってそんなにいないのよ。みんな、あれこれ勝手な噂話したり、たいていは、誰とどこに行った、こっちを見た見ないって、男同士で競い合ってるだけ。
ダイスケくんだかミッチーだかとお茶ぐらい行ったことはあっただろうけど、真莉ちゃんはとにかく忙しかったからね。二股するような暇はなかったわよ。早朝から仕入れ行ったり店開けたり、一時はお母さんの体調も悪くてその世話もしてたのよ。映画の中では、きまぐれにライブ見に来て突然帰っちゃって男の気を引こうとしてる女って感じだったけど、全部仕事があったからなの。
真莉ちゃんは、あまりに仕事仕事の毎日だったから、たまに同年代の子たちが集まる場所に行くのは楽しかったとは思うけどね。私も、そこで真莉ちゃんと知り合ったのよ。私のほうは、真莉ちゃんともう少し仲良くなれたらなって思っていたけど、真莉ちゃんはあまり自分のことを話さない人だったから……」
麗子が知る若いころの母を、駒子は思い浮かべようとしたが、映画のマリアの姿が邪魔をした。
「真莉ちゃん、ご家族の事情が大変だったのよね。詳しいことは私にも話してくれなかったけど、お花屋さんをやるために高校も中退しちゃって、同級生だった人たちとも疎遠になってたみたいで……。
事情を知らない人が見たら、真莉ちゃんはいつも男の人といて、女の友達はいないタイプに思えたかもしれない。私も今は、真莉ちゃんは同性の友達関係やコミュニケーションが苦手な性格だったんだなってわかるけど。ほら、女同士の付き合いって、いろいろ気を回したり面倒なことが多いでしょう? 気遣いをし合うのはもちろんいいことだけど、それができないと、なんなの、あの子、ってなっちゃって」
「……なんとなく、わかります」
「でも、細やかな人間関係が苦手だったっていうだけで、映画のあの子みたいにわがまま言ったり急に感情を出して周りを困らせるみたいなことは全然なかったわよ。おうちでもそうだったでしょう?」
返答に詰まって、駒子は曖昧に、まあ、はい、と濁した。
母は麗子さんには不安定な面を出すことはなかったのだろう。今、長野で一緒に仕事をしている人に対しても、朗らかで有能な講師であり続けているのは知っている。
つまり、母は自分のことをコントロール不能なのではない。相手を選んで、その感情をぶつけている。そう思うとまた気が重くなってきたので、話を変えた。
「麗子さんは、父にも会ったことがありましたか?」
「遠目に見たことはあったけど、直接話したことはなかった。真莉ちゃんから結婚するって聞いて、あの人かなっていうくらいで、そんなにはっきりした印象はなかったかな。こんな言い方すると失礼に聞こえちゃうかもしれないけど、普通の人だな、って。でも、真莉ちゃんにはそういう感じの、穏やかな人がいいのかもとは思ったわね」
普通の人。穏やかな人。たいていの人は、父のことをそう言う。
「映画の最後の外車に乗ったおぼっちゃん! あれはないわよねえ。自分たちが惚れた女をさ、金目当てで結婚したみたいな扱い! なにが天使じゃなくて女だった、よ」
ははは、と駒子は声を出して笑った。
麗子はふと真顔になって、話し始めた。
「何年か前にね、ミーコのことを聞いたの」
音楽業界の知り合いにミーコとつながりのある人がいて、知人の近況などを話しているときにミーコの名前が出たらしい。
映画『明日の世界』に出演した後、ミーコは音楽番組の出演も増えたし、当時最も人気があった女優が主演の連続ドラマにも出た。しかし、彼女の歌や演技よりも突飛な言動ばかりが注目され、本人は自分がやりたい音楽活動と世間のイメージとのギャップに悩んでいたようだ。さらに、映画で共演したベテラン俳優との不倫関係が週刊誌で報じられ、自宅前で芸能記者たちに囲まれた彼女は、あなたたちには関係ないことです、そんなに知りたいんですか? と言ったことをきっけにバッシングを受け、音楽番組の出演直前に行方不明になってしまった。数日後にハワイの友人宅にいるのがわかり、決まっていた仕事はすべてキャンセル、当分の間、謹慎となる一方で、不倫関係と噂された俳優のほうはノーコメントで通した。そこまでは、駒子もインターネットで検索して知っていることだった。
謹慎になったあと、ミーコは事務所を辞め、『明日の世界』に出演する前に組んでいたバンドの仲間と音楽活動を別名義で再開したが、うまくいかなかった。しばらくして、失踪騒動のときにいっしょにいたハワイ在住の友人から誘いを受けて、ワイキキのインテリアショップで働き始めた。数年して自分の店を持ち、そこに音楽活動をしていた時期の知人男性が偶然訪れ、結婚して今もハワイに住んでいる。その結婚した知人男性というのが、中島麗子が若いころに仕事をしたことがあるレコーディング・エンジニアだった。というのが、麗子が聞いてきた話だった。
「ハワイで会ってきたって写真も見せてもらったんだけど、健康そうでよかったわ。音楽もやってて、お店で歌ったりしてるそうよ。知らない人ばっかりの土地でやっと自由になれたのかしら。私は映画に出たりする前からミーコの歌が好きだったから、あんなふうに変に騒がれないで、ずっと音楽活動ができてたらよかったのに、って今でも思うのよ」
駒子は、検索して自分もミーコの突飛な言動ばかり追ってしまったのが申し訳なくなった。ミーコの歌を先に聴けばよかったと思った。
「このあいだ、『明日の世界』を観た友達と、映画やテレビの世界でちょっと変わった言動するキャラの女の子について話してたんです。私たちも、突拍子もないこと言ったり自分たちとは違う自由さを持った女の子に憧れてたことはあるから、ミーコやマリアみたいにわけわかんない言動する子に振り回されるのを喜ぶ男の人がいるっているのは、なんかわかるんですよね。恋愛対象じゃなくても、周りの人が突飛な言動を期待して、待ち構えてたりすると思うんですよ。若くて、不安な子たちは、って他人事みたいな言い方ですけど、そうじゃなくて誰でもそういうとこあると思うんですけど、自分に期待されてることに応えようとして、どんどん無理して、がんばっちゃう。それは、必死に居場所を確保しようとしてただけなんじゃないかな、って。それなのに、期待して、おもしろがってた側の人たちは、あの子が勝手にやっただけだ、浅はかだったんだ、って言うんですよね」
自分でもなにが言いたいのかわからなくなってきた、と思いつつも駒子は話すのを止められなかった。戸惑いながら麗子を見ると、彼女はじっと駒子を見つめて、ときどきうなずいた。
「真莉ちゃんは、長野でお花の仕事してるんですってね?」
「麗子さんが会いに行ったら喜ぶと思います」
「そうならいいけど」
麗子は微笑んだが、少しさびしそうに見えた。
「今年で講師の仕事は辞めようと思ってるの。このあと何年ピアノが弾けるかって考えたら、好きな曲だけ、弾いていたいと思って」
麗子は駒子が就職するよりも前から、音楽教室で講師をしていた。今いる講師の中でもいちばん長く勤めている人かもしれない。
「駒子ちゃんもね、たとえば、健康にいいからってそんなに好きでもない食べもの食べるようなのは、やらなくていいのよ。生きてる間に食べられるものは限られてるんだから、自分がおいしいと思うものを食べなくちゃ」
はい、とは返答したものの、わかるようなわからないようなことを言うなあ、と駒子は思いつつ、母の連絡先を伝えて、喫茶店を出た。
本部に向かいながら、母が女友達と出かけたり、家に母の友達が遊びに来たりしたことはなかった、と思い返す。それは父のほうも同じだ。
確かに、麗子さんが言うように、母は仕事と家族の事情に押し潰されそうな毎日だっただろう。同年代の人たちが楽しく過ごしているのを見るのもつらかったかもしれないし、そんなときに母の言うことをなんでも聞いてくれる父を母が頼ったとしてもしかたがないと思う。ただ、麗子さんか、誰か他の人でも、母に気軽に話ができる友達がいたら自分たち家族の状況も少しは違ったかもしれない。
今さら考えてもどうしようもないことだけど。そこまで思って、駒子は気づいた。私は今でも、母と普通に話ができたらよかったのに、と思っている。どこかで、まだ母に対して期待を持ってしまっている。
涙が滲んできたのがわかって、駒子は頭を軽く振り、地下鉄に乗り込んだ。
麗子に会った翌日の夜、駒子は先日花屋の二階から荷物を持って帰ってきたまま放置していたキャリーバッグを開けよう、と思い立った。
一瞬、千景に立ち会ってもらおうかという気持ちが湧いたが、なにが出てくるかほんとうにわからないのでやめた。
床に寝かせたキャリーバッグのファスナーを開くと、乱雑に突っ込んだ封筒が三つ、食器を包んだ紙の上にあった。また知りたくないこと、見たくないものを手にしてしまうのだろう、と気持ちがくじけそうになったが、大きく息をしていちばん上の封筒を手に取った。
逆さにすると、書類と一回り小さい封筒が落ちた。
書類を手に取ると、「調査報告書」と書かれている。そして、下部に印字された「探偵事務所」の文字に、心臓をつかまれたような心地がした。
しかし、その文字がある表紙だけで、後ろについていたはずのページはホチキスの形跡が残るだけで破り取られたようだった。重ねられていたレポート用紙には父の書いた字で、駒子が通っていた大学名や最寄り駅がメモされている。
一回り小さい封筒には、写真が数枚入っていた。L判よりも少し大きいサイズにカラーでプリントされたそれらは、隠し撮りしたもののようだった。
繁華街を歩く駒子と大学三年のときにつき合っていた相手が写っていた。二十歳の自分が着ている薄茶のチェックのコートは当時すごく気に入っていてその冬は毎日これだった、と駒子は生々しく思い出した。その次の写真は、広島出身で一人暮らしをしていた彼が住んでいた大学近くのアパートに入っていく駒子で、同じコートを着ている。
混乱しながらも、次の写真を見た。さっきの写真とはサイズもプリントの感じも違っているので、別の時期のものだと推測された。
やはり、駒子と若い男性の姿だった。就職して半年後から二年ほどつき合っていた人で、彼が住んでいた阿佐ヶ谷のマンションから出てきたところと、ファミレスの窓際の席で食事をしている場面だった。
駒子は、震える手で他の封筒に入っているものも出してみた。しかしそこには、勤め先の従業員簿や未使用の集計用紙があるだけで、手がかりになるようなものはなにもなかった。
(つづく)
