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来る2023年、中公文庫は創刊50周年を迎えます。その記念プレ企画として、本連載では「50歳からのおすすめ本」を著名人の方に伺っていきます。「人生100年時代」において、50歳は折り返し地点。中公文庫も、次の50年へ――。50歳からの新たなスタートを支え、生き方のヒントをくれる一冊とは? 第16回は、建築史家・建築家の藤森照信さんに伺います。
藤森 照信(ふじもり・てるのぶ)
建築史家・建築家 1946年長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。近代建築、都市史研究の第一人者として活躍。東京大学名誉教授。工学院大学特任教授。江戸東京博物館館長。86年、赤瀬川原平氏、南伸坊氏らと路上観察学会を結成。自邸や赤瀬川氏邸のほか、神長官守矢史料館など独創的な建築も手がける。「ラ コリーナ近江八幡 草屋根」で日本芸術院賞受賞。著書に『藤森照信作品集』『茶室学講義』『藤森照信 現代住宅探訪記』など。
”医”と”本好き”という共通性
”ほぼふつう”と称していいような人物の生涯をたどって深い読後感を与えることができるなんて、この本を読むまで思いもよらなかった。
主人公の渋江抽斎は、弘前は津軽藩の藩医を務めるかたわら、中国の古書を集めて『経籍訪古志』を誌したものの国内では出版できず、その内容を惜しんだ中国人の手で刊行された。後世に伝わる人生の事績はこの一冊しかないが、たまたまこの一冊を手にした森鴎外が、”医”と”本好き”の二点に自分との共通性を覚え、忘れられた生涯を掘り起こしてゆく。
当時の先端的文学者であった鴎外がなぜ歴史という死者の領分に転じたかについて、
と述べていることから知られるように、明治期を通して公的にも社会的にも名士となった鴎外には時代の先端をナマナマしく扱うことができなくなり、現代から過去へ、生者から死者へ、とテーマを変えた。内発的にテーマを変えるならともかく、外圧(周囲の状況)によって変えるなんて近代の文学者としては恥ずかしいはずだが、そのことをサラリと書くところに、漱石や藤村とは違う鴎外の人間観がにじむ。
有名人も市井のお菓子屋も、退屈させずに綴る巧みさ
抽斎の「徳川時代の事蹟」を調べてゆく過程を延々と119章に分けて綴るだけだが、しかし退屈はしない。探る途中で、東京に今も続く地名が「津軽家の上屋敷が神田小川町から本所に徒(うつ)されたのは」というように登場するのも効いているし、抽斎の縁者のそのまた縁者や、知人のそのまた知人まで広げて探っているから、何百人もの登場人物の中には井沢蘭軒や安積艮斎(あさかごんさい)や谷文晁(たにぶんちょう)のような歴史上の有名人も顔を出し、時代と人物の間のピントが一瞬だけ合う。
ピントの合う人物は少数だが、ピントの合わせようもない大多数の人々についても輪郭がボケたりはしない。たとえば市井のお菓子屋について一章を当てて次のように綴る。
鴎外は自分で訪ねて会った保さんからの思い出話から五郎作について書き、この描写によって一菓子商の像が読者の内にきっちりと定着する。