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お喋りエネルギーが炸裂
私がイタリア人たちに囲まれて暮らすようになり、周囲に適応するためにやらねばならないこととしてまず最初に覚えたのは、善いことでも悪いことでも、胸中の思惑はなるべく言語化して表に出す、ということである。留学後に初めて付き合ったイタリア人の彼氏に「君はどうして思ったことを言葉にしないんだ」と指摘され、私にはそんな自覚がなかっただけにとても驚いた。
しかしそれからほどなく、当時ほかの学生たちとシェアしていた家が実は又貸しで、私が全家賃の半額以上をひとりで払っていたことが発覚。その日を境に、私は自分の性格を変えた。いや、変えざるをえなくなった。自分の主張が通らなければ、私はずっと“カモ東洋人”として多額の家賃を払い続けていかなければならなくなる。17歳で家を出るまで親とすら大した喧嘩経験のない私だったが、その時は半分演技のつもりでシェア仲間に対して声を張り上げ、辞書を片手に文句を言い、大騒ぎになった。家賃の不正がわかってからそれでも数週間我慢をしたうえでの決壊だったが、その後の私が以前のように戻ることはもうなかった。イタリアで生き延びていくには言語化と弁証能力が何より必要だとわかったからだ。
考えてみれば、思ったことを隠さずぺちゃくちゃ喋る家族に囲まれて育ち、学校での試験は口頭試問、誰かを好きになってもはっきり「大好き」「愛している」と言語化できなければ一生独り者、主張しなければ周りからおし潰されてしまうイタリアの環境は、日本の“耐える”“我慢する”といった美徳などとても受け入れてはくれないのである。アラブ諸国やアジアではヒットした日本のテレビドラマ『おしん』が、イタリアでは大不評だったのはわかりやすい。
納得できなかったり、悲しい思いをさせられたのなら、それはどんどん言葉にして表に出すべしという考え方は、イタリア人の噂話熱に繋がっていく。夫の家族もやれ食事だご挨拶だと頻繁によく集まるが、特に女たちは、その時を待ってましたとばかりにお喋りエネルギーを炸裂させる。うちの嫁が、息子の学校の先生が、この街の市長が、あの女優が、イタリアの首相が、と人さまの話で異様に盛り上がる。そんななかでも突出してお喋りな自分の母親に対して、ついにある時「もうゴシップ話はいい加減にしなさいよ」と告げた夫だったが、彼が返された言葉は「悪口でもゴシップでもないわよ、人間の言動を分析しているだけ。探究心を持つことの何が悪いのよ」だったそうだ。そういえば彼女は夫婦喧嘩も「これはコミュニケーションよ、喧嘩じゃないわよ」と言い表すような人である。
何はともあれ、毒素を孕んだ嫌な思惑を抱え込んでいると病気になる、人間は風通し良く生きてなんぼ、という彼女たちの信念はあながち間違ってはいないだろう。なぜなら、そんな強烈なお喋り噂好きが集まっていながら、時々激しい仲違いはあったとしても、結局共同体としての社会はそれなりにうまく機能しているのだから。