ご自身でチョイスしたスタイリングで、笑顔の五木さん(写真撮影:本社・奥西義和)

昭和から令和まで歌謡界の第一線を走り続け、2024年には60年を迎える歌手の五木ひろしさん。6月20日には神奈川県民ホールでコンサートが行われ、同日、YouTube番組「あなたとアイマショー」が16:30より配信開始。『婦人公論.jp』でも、昭和歌謡を語る連載が近々スタートする。歌手生活と範半生を振り返ったインタビューを再配信します。

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福井で育った一人の「歌の上手い少年」が歌手を夢見て上京。1964年、16歳でレコード会社と契約した。少年の名は、松山数夫。その後、松山まさる、一条英一、三谷謙と名を変えて、23歳で五木ひろしとなる。
今でこそ押しも押されもせぬ大スターの五木ひろしさんが、スターになるまでにかかった年月は6年あまり。しかし、夢をあきらめたことは一度もなかったという。
昭和、平成、令和と日本の芸能界に身を置き、第一線をひたすら走り続けながら、いまだに進化を続ける五木ひろしさんのパワーの源とは―――?

(構成◎吉田明美 撮影◎本社・奥西義和)

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松山まさる、一条英一、三谷謙と名を変えて

3月に新曲として「だけどYOKOHAMA」をリメイクして出しました。作詞は五木寛之先生。この曲は2005年のアルバムに収録してあったもので、1970年から横浜にお住まいの五木先生が横浜に対する特別な思い入れを詞にしてくださって、僕が曲をつけたんです。気に入っていたこの曲を思い切ってテンポアップしたアレンジにして変えてレコーディングしてみたら、これがいいんですよ(笑) 。まさに僕の得意ジャンルの素敵な1曲に仕上がった。それで急遽A面にしました。

「だけど」っていう言葉にはきっといろんな意味があると思う。五木先生は変わっていく横浜をずっとごらんになっていて、バンドホテルから見える氷川丸やら、本牧のクラブで踊った思い出がおありですから。

僕にも僕の思い出があります。山口洋子さんにスカウトされて、山口洋子さん作詞の「よこはま・たそがれ」で大きくしてもらったというのももちろんですが、上京してきて、青春時代、遊びに行くといえば横浜でしたから。なけなしのお金を握りしめて、友だちとよくドライブしたり、デートもしましたよ。

僕は五木ひろしになる前に「雨のヨコハマ」という曲を出しているんですけれど、その歌詞には外人墓地が出てくるし、キャンペーンでは伊勢崎町を回りました。その時代時代でそれぞれの横浜があるんですよね。今ならみなとみらいかな? だけど横浜は横浜なんですよ。「だけどYOKOHAMA」の「だけど」って、深いんです。

そのカップリング曲、もともとA面になるはずだった曲が、「時は流れて・・・」。作詞作曲は僕自身です。