1964年(昭和39年)。東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されるこの年に福井県出身の松山数夫という16歳の少年が東京駅に降り立った。
のちの「五木ひろし」―――誰もが認める国民的歌手である。芸能界に飛び込んで来年で60年。歩んできた歴史は、昭和の歌謡史そのものだ。五木ひろしが見た風景とは?語り継ぐべき日本の歌謡史とは―――。(構成◎吉田明美)

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「夜のヒットスタジオ」がとても思い出深い番組

70年代はとにかくレコードが売れた時代です。日本の景気はずっと上向いていて、バブルに向かっていました。
僕も1年に数枚のレコードを出して、1年で100万枚売れましたから10年で1000万枚ですよね。10周年をやったときにレコード会社の社長から「五木くんはこの10年で300億円稼いでくれた」と言われましたよ。(笑)

70年代は歌番組もたくさんあって、楽しかったですね。
テレビは一家に一台の時代だから、家族そろって同じ番組を見るんですよね。だからあのころは家族みんな同じ歌を歌えたんじゃないかな?

僕にとってはフジテレビの『夜のヒットスタジオ』がとても思い出深い番組。1971年の3月にデビューして、6月に最初に出演したんですが、その後、最多出場記録を作ったほどです。

番組の冒頭で他の人の曲をワンフレーズ歌って、次々にマイクを渡していくというオープニングメドレーというのがあったんだけど、歌詞を間違えたりキーが合わなくて歌えない歌手もたくさんいましたよ。(笑)
当時は、オーケストラが入って生演奏で歌っていたので、キーを簡単に変えることはできなかったです。