《受賞のことば》

剣とペンを構えて受賞のことば 佐藤賢一

「ただいま選考が終わりまして、『チャンバラ』が中央公論文芸賞に選ばれました。お受け下さいますか」

編集者氏からの電話を受けたのは、札幌でのことだった。

高三の息子が競泳をやっていて、北海道開催のインターハイに出るというので、その応援に来ていた──という割に、サッポロビール園のレストランで、ジンギスカン食べ放題、ビール飲み放題に並んでいた。

子供の頑張りに便乗して、親だけ楽しもうとしていたのであり、その報いで何か悪いことでも起きたのかと戦慄しつつ、出た携帯で知らされたのが、中央公論文芸賞の受賞だったのだ。

いやあ、嬉しい。作家デビューして、ちょうど30年になるが、この節目の年を祝われたような気がして、本当に嬉しい。

とはいえ、ただ長く続けただけでもらえるような簡単な褒美でないことも、重々承知である。

作家生活30年、年齢としても、とうに50を超えて、60に近づきつつある。正直、やや疲れ気味だ。

打ち明けるほど情けないが、本音だから仕方ない。『チャンバラ』で書いた宮本武蔵ではないが、もう晩年だ、これまでの集大成だとして、それこそ『五輪書(ごりんのしょ)』めいた小説奥義の一冊でも認めて、人生まとめに入りたい気分さえないではない。

まあ、宮本武蔵だから成立する話であり、そんなもの、俺ごときが書いても誰も読まんと思い返し、やあと気合いを入れなおして、再び組みついた小説が、この『チャンバラ』だった。

ほぼ全編アクションであり、つまりは活劇であり、タイトル通りにチャンバラであるという作品だ。

ただ思い悩んだり、葛藤したり、煩悶したりということなら、机で唸れば書けたろうが、三次元的に身体の動きを描くとなると、それでは済まない。右から太刀を振り下ろされれば、こうよける。このとき右足が前に出る。いや、二刀を使う武蔵は、左手で脇差を振るう。そうなると、左足は──頭のなかで考えてみるも、そのうち何が何だかわからなくなる。

「おまえ、ちょっと来い」

息子を呼んで、オモチャの刀を持たせる。実際に向かい合うことで、武蔵の動きや敵との位置関係、身体の向き、足の向きを確かめながら書くというのも、しばしばだった。だから、おまえ、上段から振り下ろしてみろ。よけると、そうか、右足がこの位置か。しかし、ここで脇差を返すと──いや、おまえ、痛いよ、やりかえすなよ。

高三の息子だから、もう大きい。スポーツをやっているので、力もある。とても、かなわない。ああ、そろそろ世代交代だ、やっぱり俺の時代は終わりなんだと、それまた平素の弱気を助長する因だったが、しかし、である。オモチャとはいえ、今は剣を構えているのである。

「オトンだって、本気で叩くじゃん」

当たり前だ。力を抜くなどできるものか。ムキにならずにいられるものか。というのは、しょぼくれた俺でも、まだ剣を、いや、ペンを構えているのだ。

熱くならずにいられるか。簡単にあきらめられるか──という思いで書き続けたのが、この『チャンバラ』という作品だったりもする。

宮本武蔵のみか、作中、その父親である老新免無二に妙に肩入れしているのも、同じ気持ちの表れだったかもしれないが、いずれにせよ、

「まだまだ」

として譲らず、悟らず、落ち着かず、性懲りもなく足搔き続ける、ある種の大人げなさをこそ、評価していただいたのではないかと思う。

ありがとうございました。

<佐藤賢一さん>(撮影:本社・奥西義和)