『パシヨン』(川越宗一:著/PHP研究所)

【選評】

「「静」と「動」」 浅田次郎


此度はまこと好対照の二作が受賞となった。川越宗一氏『パシヨン』は文章表現に適さない「動」の場面を、感情や心理の描写といった「静」に置き換えた、いわば王道を踏んだ作品である。一方の佐藤賢一氏『チャンバラ』はそうした表現特性の原理を承知したうえで、あえて「静」を捨て「動」を取った一種の実験小説と言えよう。

『パシヨン』については、先行作品の多い「キリシタン物」に挑んだ気概に感心した。主人公の祖父にあたる小西行長は、遠藤周作が『鉄の首枷』に詳しく書いているが、本作への影響は感じられない。また、同じ作者の手になる名作『沈黙』のように明確な主題性も見当たらず、むしろそうした先行作との断絶と資料との直結が、『パシヨン』を自由で上質なエンタテインメントに仕立て上げたと思えた。また、小西行長の出自が堺の商家であることを思えば、主人公の生真面目さと奔放さが混じりあった、人あたりのよい妖精めいた性格も肯けるところであるが、いささか深読みに過ぎるであろうか。

しかるに、同様の読み方は『チャンバラ』にも可である。宮本武蔵はそれこそ使い尽くされた主人公であり、なおかつ先行作品には吉川英治の手になる決定版もある。よしや全八巻におよぶ大作を読まずとも、吉川の創作部分に至るまで史実のごとく人口に膾炙しているのである。そうした条件下において文章表現の可能性を追求した本作は、読みながら思わず拍手を送りたくなる痛快な小説であった。
 

 

「志の高い二作」 鹿島茂


川越宗一さんの『パシヨン』はキリシタン大名小西行長の孫として生まれ、数奇な運命を経たのち、最後の日本人司祭として祖国に潜入した小西彦七(マンショ)と、下級の旗本から身を起こし、キリシタン奉行として弾圧を取り仕切った井上筑後守政重を、ある種の対比列伝風に描いた重厚な時代小説です。興味深いのは、二人の背後にあるイエズス会と徳川幕藩体制という二つの組織がどちらも自己永続化だけを目的とした論理に貫かれ、不思議な鏡像構造を成しているのを明らかにした点だと思われます。西洋と日本という究極の二元論を視野に入れて、時代小説を超えようとした時代小説を目指す高い志をもった作品といえます。

佐藤賢一さんの『チャンバラ』は、宮本武蔵の真剣勝負の数々を、吉川英治的な修養的要素なしに、チャンバラのみを即ザッハリヒ物的に描ききることだけを目標にした、これも別の意味で志の高い小説といえます。我々の世代は映画で、宮本武蔵の決闘は繰り返し見ているのですが、佐藤さんは新しい世代らしく、映像に対抗して言葉によってチャンバラをどこまで描ききれるかの一点に興味を絞っています。

チャンバラを描くのに言葉は映像に勝てないという意見もありましたが、私は描きえないものを描くのも小説家の使命であると考え、佐藤さんの挑戦を是としたいと思いました。

ともにこれまでの作品を超えようというチャレンジ精神が感じられるという意味において、同時受賞に値すると判断しました。