お父さん手作りの「基地」。中では小学生の里子たちが楽しそうに遊ぶ。庭には犬やヤギも

生みの母親は亡くなっていて……

小学校2年の時に、東日本に住む親戚の存在がわかった。その人が、「ゆりかご」に置かれている「お父さんへお母さんへ」という病院からの手紙を持ち帰っており、預けたことは間違いなかった。しかし、生みの母はすでに他界していたという。

夏休みに入ると、美光さんが航一さんを伴って実母の墓参りに行く計画が立てられた。それに向けて、みどりさんは美光さんが補導員研修で習ってきた「ロールレタリング」という手法を使って、航一さんが天国のお母さんのイメージを作る手助けをした。

母親について何の記憶もなかった航一さんのため、実母に成り代わって手紙のやりとりをしたのだ。「今、航一はどうしているの」「里親の宮津さんのところで元気に暮らしています」──。

実母は航一さんが生後5ヵ月の時に交通事故で死去していた。父親はわからなかったが、実母のことは近くの住民が覚えていて、母は航一さんをかわいがって育てていたことがわかった。航一さんは、みどりさんとやりとりして書き上げた手紙を墓前で読み上げ、墓の近くにあった石を持ち帰って、今でも大切にしている。

「その頃は店を畳み、ファミリーホームをしていましたので、新しくやってきた里子の兄弟とこれまで通り暮らしていました。ところが航一が高2の時にお父さんが脳梗塞になり、『自分が生きているうちに航一を養子縁組したい』と。当初はもう少し大人になってからしっかり話し合うつもりでしたが、病気で早まったのです」(みどりさん)

それには布石があった。文章や絵を描くことが好きだった航一さんは、小6の時に宮津家の家系図を書いた。そして5人の兄の後に、「六男航一」と。宮津家の子どもになりたいのはわかっていたので、美光さんは「この子に悪いけん、早くしよう」と縁組を急いだ。もちろん航一さんも同意し、その年の年末には、宮津家の一員になった。