歴史には闇が多い

実際に、光秀に会ったヨーロッパ人の宣教師の書いたものがヒントになる。光秀と家族は、姿が上品であって、外交に向き、信用を得やすかった。そのうえ、光秀は自分は「人を欺くために72の方法を深く会得し」ていると、吹聴していた。その光秀が、さまざまな理由から、とある恐怖に駆られて、信長を襲った。

本能寺の変で、信長の遺体は焼けてしまって、遺骨は誰のものやらわからない有様だったと考えられるが、信長の遺体収容の記録も、あるにはある。京都・阿弥陀(あみだ)寺の住職・清玉(せいぎょく)上人が本能寺に真っ先に駆けつけた時の伝承を記した史料である。江戸時代の史料だが、私はその原本調査もした。信長の遺体の行方についての伝説も、『日本史を暴く』では検討している。

とかく、歴史には闇が多い。例えば、豊臣秀頼(ひでより)は豊臣秀吉の実の子であるのか。歴史研究者の間でも、議論がある。秀吉が朝鮮を攻めに大坂城をあけた留守中に、側室の淀殿(よどどの)が不倫をし、秀頼を宿したとの説もある。

秀頼の生母・淀殿周辺の人々が秀吉の留守中に「みだりに男女」の関係をもったとされ、口封じの粛清か、30人をこえる人間が「生きたまま火あぶり」にされたり「斬られた」りしたのは、事実である。

この時、秀頼の実父の可能性のある男も処刑された、とされるが、名前はわかっていない。そこで、この時、処刑された男性の名を調べはじめ、1人だけ実名を割り出せた。