「東京ブギウギ」誕生まで
戦時中の1942(昭和17)年、服部は「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」に出会い、戦争が終わったらこのリズムを活かしてブギウギ・ソングを作ろうと考えていた。
霧島昇の「胸の振子」のレコーディングの帰途、終電近くの中央線で吉祥寺に帰宅する途中、レールを刻む電車の振動に揺れる吊り革のアフタービート的な揺れに、八拍のリズムを感じて曲想が湧き、西荻窪で下車。駅前の喫茶店でナフキンに音符を書きとめ「東京ブギウギ」と命名した。
作詞の鈴木勝は、海外に禅を広めたことで知られる仏教学者・文学博士の鈴木大拙の養子で、親がスコットランド人と日本人という説もあり、戦前にジャパンタイムズ、戦時中は同盟通信社の特派員として上海で勤務していた。鈴木アラン勝の通称で、進駐軍の将校たちとも交流があった。
1947年9月10日、「東京ブギウギ」のレコーディングが、東京・内幸町の東洋拓殖ビルにあったコロムビアのスタジオで行われた。
当日は、鈴木勝の声がけで、隣のビルにあった米軍クラブから下士官たちが押しかけてきた。スタッフは戸惑ったが、服部は「かえってムードが盛り上がるかも知れない」とレコーディングを断行。
シヅ子のパンチのある歌声、ビートの効いたコロムビア・オーケストラ。全身でそのサウンドにスウィングしているGIたち。OKのランプがつくと、GIたちが真っ先に歓声を上げたと、服部は自伝「ぼくの音楽人生」(93年・日本文芸社)で回想している。
こうして「東京ブギウギ」が誕生した。