老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

「それは、私こそ知りたい」
 彗怜が肩をすくめた。
「一部の日本人は、同姓でないと家族の絆が保てないとか言うけど、姓が違うからといって、私と娘の間に隔たりがあったことなんて、一度もないよ。隔たりがあるとすれば、それは姓ではなく、また別の問題」
「理所当然的(リースオダンランダ)(まったくその通りだね)」
 涼音の眼から見ても、中国人の家族の連帯感の強さは、日本人を上回っているように思える。
 桜山ホテルのラウンジにも、たくさんの中国人たちが一家総出でやってきた。相当の高齢者から、ときには赤ちゃんまで。そこに、日本なら家族と距離を置きたがる難しい年頃の少年少女がごく自然に交じっていることに、涼音はいつも内心感嘆していた。
「世界中の国が選択制や別姓を実践しているんだから、システム上の問題ではないはずだよ」
 ココナッツタルトを切り分け、彗怜が続ける。
「だけど瑠璃(リウリー)が言うみたいに、それをフェミニズムの問題とごっちゃにしている以上、なかなか自分事にならないんだろうね」
〝そういう人でしたっけ〟
 怪訝そうに問いかけてきた瑠璃の様子を、涼音は思い返す。
 自分の名前でいたいと思うことに、本来性差(ジェンダー)は関係ないはずだ。
 涼音は、自分が「遠山涼音」でいたいと思うのと同様に、達也には「飛鳥井達也」でいて欲しいと思っている。
 現在の婚姻の気持ち悪さは、一見「どちらの姓を選んでも自由」という、もっともらしい定義が掲げられていることだ。婚姻届の欄に印をつけるのは、あくまでも当事者自身。選択内容を強要されることはない。
 但し、ほとんどの人たちが「夫の氏」を選択し、雛型も「夫の氏」に印が入っている。
 涼音も最初は、自然に「夫の氏」を選ぼうとした。
 とりあえず男の人を代表にしておけばいい、と母は言ったが、それが標準となっている世の中では、「妻の氏」を選ぶ場合、多くの理由や弁明が必要になってくるだろう。そこには確かに性差がある。
 だから、標準的に姓を変えさせられる側の女性が疑問を呈すると、フェミニズムの問題にすり替えられてしまうのかもしれない。だけど、それは「ひっかけ」だ。
 一番の問題はそこじゃない。
 結婚によって自分の名前を失いたくないと思う人の権利が、端から損なわれていることこそが問題なのだ。
 香織や瑠璃のように婚姻相手の姓になることに違和感がないという人たちは改姓して夫婦同姓になり、涼音のように自分の姓でいたいと思う人たちは婚姻後も改姓をせずに夫婦別姓を選べばいい。ただ、それだけのことだ。
 しかし、こんな単純なことを、これまで「自分事」として考えてこなかったのは、「とりあえず男性を代表にしておけばいい」世の中に、涼音自身がすっかり慣れ切ってしまっていたせいかもしれない。
「とにかく、飛鳥井シェフとは一度きちんと話し合ったほうがいいと思うよ。リャンインが納得できないまま、婚姻届を出すのはよくない」
 彗怜の提言に深く頷き、涼音はマスクメロンのジュレを口に運んだ。ラム酒を利かせたジュレの芳醇な香りが口一杯に広がり、完熟マスクメロンの果肉が舌の上でとろりと溶ける。
 贅沢な味わいに、涼音は一瞬、これから向き合わなければならない様々な問題を忘れてうっとりした。メロン特有の青臭さがまったくなく、濃厚なのに爽やかな甘みが口中に深い余韻を残す。
 やっぱり、アフタヌーンティーって最高のご褒美かも。
 一匙ずつ余韻を楽しみながら、涼音は胸の中で呟いた。
 セイボリーとスイーツをあらかた食べ終えたところに、別皿で焼きたてのスコーンが供された。涼音はホテルオリジナルのダージリンブレンドをリクエストし、彗怜はアールグレイのお代わりを頼んだ。
「かしこまりました」
 黒服の男性が恭しく目礼し、空いた皿を下げていく。本来バーのせいなのか、たまたまなのか、このホテルのラウンジに女性のスタッフはいなかった。
 もし、桜山ホテルのラウンジスタッフが瑠璃のような若い女性ではなく、こうした男性たちだったら、件の初老のゲストはクレームを口にしただろうかと、涼音は頭の片隅で考える。
 このバーラウンジのアフタヌーンティーは三段スタンドではなくコース仕立てだが、やはりオリジナル性の強いメニューだ。イギリスの伝統的なアフタヌーンティーにこだわるなら、セイボリーはキュウリやレバーペーストのサンドイッチになってしまう。ハンバーガーが出ることは、まずないだろう。
 それを邪道と取るか、工夫と取るかはゲスト次第だ。
 涼音と彗怜は、暫し会話を中断し、焼きたてのスコーンに専念した。小ぶりのスコーンには、クロテッドクリームと、ブルーベリージャムが添えられている。
 ジャムファーストか、クリームファーストかは、本場イギリスでも永遠の論争だけれど、涼音はデヴォン派と呼ばれるクリームを先に載せる食べ方が好きだった。スコーンの熱でクリームが溶けるのを防ぐため、ジャムを先載せするジャムファーストが長らく正統とされてきたが、それに反旗を翻したのが、乳製品の産地の一つであるデヴォン州の人たちだ。 
 曰く、溶ける分など気にせず、クリームをたっぷり先載せするのこそが伝統的な食べ方という主張だ。実際にやってみると、クリームの塩気がスコーンに沁みて、後から載せるジャムの甘さと絡み合い、絶妙な美味しさになる。
 とは言え、こればかりは個人の好みの問題だと涼音は思う。要するに、正統か邪道かを考えるより、自分にとって一番美味しい方法で食べることが肝要なのだ。
「未だに選択制夫婦別姓が実現しない日本については謎でしかないけど……」
 二つに割ったスコーンにブルーベリージャムを塗りながら、彗怜が再び口を開いた。
「夫婦別姓問題とフェミニズムは、まったくの別ものだよ」
 ジャムファーストで仕上げたスコーンを口に運び、ベージュのネイルカラーを施した綺麗な指先で、ティーカップのハンドルをつまむ。
「夫婦別姓が実現している国にだって、いくらでもジェンダーギャップはあるから。中国は建国以来、男女平等を掲げているし、私も夫も大都市出身だから、まだましなほうだとは思うけど、それでもやっぱりね」
 アールグレイを一口飲み、彗怜は窓の向こうのオフィス街に眼をやった。
「結婚や妊娠をすると、日本でも中国でも、無条件に〝おめでとう〟って言うじゃない? 私も妊娠したとき、〝恭喜(コンシー)(おめでとう)〟の嵐だったんだ。もちろん、子どもができたのは嬉しかったよ。ずっと欲しかったから。だけど、私はそのせいで、職を失ってもいたからね。あっちにいっても、こっちにいっても、〝恭喜、恭喜〟〝おめでとう、おめでとう〟で、しまいにはふざけるなって思った」
 話を聞きながら、かつて契約社員だった彗怜が、妊娠の際に雇いどめに遭っていることを、涼音は思い出した。
「結婚とか妊娠って、実際にはおめでたいだけじゃないよね。覚悟がいることだし」
「是的(シーダ)(そうだね)」
 涼音は中国語で相槌を打つ。本当に、その通りだと思った。
「でもね、この世の中には、結婚や妊娠を、とにかく〝おめでたいもの〟にしておきたい流れが大昔から脈々と息づいているんだよ」
「〝おめでたいもの〟にしておきたい流れ?」


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