老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 大きな一枚ガラスの向こうには、昼下がりのオフィス街が広がっている。立ち並ぶ虎ノ門の高層ビル群の隙間には、東京タワーも見えた。
 桜山ホテルのラウンジから眺める日本庭園も素晴らしいが、四十一階のバーラウンジから都会の街並みを見下ろすのは、ちょっとした遊覧飛行のような開放感がある。
 桜山ホテルのスタッフたちによる送別会の翌週、涼音はかつての同僚、呉彗怜(ウースイリン)と久しぶりに顔を合わせていた。
 窓に面したテーブルには、足つきのコンポート皿に盛られたセイボリーと、重厚感のある黒い平皿に並んだ美しいスイーツが置かれている。
 涼音の退職を知った彗怜が、慰労代わりにアフタヌーンティーをご馳走してくれることになったのだ。
 彗怜が予約したのは、自らが勤める外資系ホテルのラウンジではなく、東京の御三家ホテルの一つに数えられる老舗ホテルのバーラウンジだった。
 勉強熱心な彗怜のことだ。丁度、夏のシーズナルメニューに切り替わる時期だったので、ライバル視察の意味もあったのかもしれない。
 新鮮なトマトのカプレーゼ、マスクメロンの果肉がたっぷり入ったジュレ、ココナッツのタルト等、初夏らしいメニューがずらりとそろえられている。バーのラウンジらしく、アフタヌーンティーであっても、モクテルから始まるという構成も個性があって面白かった。
「……で、涼音(リャンイン)は、皆の反応が腑に落ちないっていうわけね」
 パッションフルーツのモクテルを片手に、彗怜がくすくすと笑う。
 先週の送別会で、夫婦同姓について疑問を呈したところ、それを香織に「マリッジブルー」で片づけられそうになったことを、涼音が話したときだ。
「香織(シャンチー)らしい反応だよね。彼女はなんだかんだ言って、保守的(コンサバ)だから」
 モクテルを飲み干し、彗怜はナフキンで軽く唇をぬぐった。 
 同世代だが、既に一児の母である彗怜は、今では外資系ホテルのラウンジのチーフとなっている。元々あか抜けていた美貌には、ますます磨きがかかっているようだ。
「腑に落ちないっていうか、なんで誰も不思議に思わないんだろうって、考えちゃう」
 セイボリーの名物、プティハンバーガーをかじりながら、涼音は首を傾げる。ホテルの指定牧場で飼育された牛肉のパテを使っているという定番のハンバーガーは、肉のうま味が強く、食べ応えがあって美味しかった。
「でも、そのリャンインの疑問は、理所(リースオ)当然(ダンラン)だと私は思うよ」
 桜山ホテルのラウンジ時代、涼音の中国語の師匠でもあった北京出身の彗怜は、会話中、しばしば中国語を挟む。理所当然とは、至極当然という意味だ。
「だって、未だに夫婦同姓を法律で義務づけている国は、世界でも日本だけなんだよ」
「ええっ!」
 スタイリッシュなラウンジには不釣り合いの大声をあげてしまい、涼音は肩をすくめる。
「なんだ、知らなかったの?」
「全然知らなかった」
 というか、ほかの皆は知っているのだろうか。
「今は世界中の国が、婚姻後の姓は基本、選択制だよ。イギリスでは夫婦別姓が標準(デフォルト)だって聞くし、フランスでは夫婦別姓どころか、事実婚がどんどん増えてるでしょ?」
 そう言われれば、フランスで出会ったほとんどのカップルは、PACSというパートナーシップ制度を使った事実婚だった。事実婚といっても、ほとんどのカップルが子どもを持ち、涼音の眼には、婚姻制の夫婦となんら変わらないように見えた。
「中国は建国の翌年の一九五〇年から、ずっと夫婦別姓。私にとっては、それこそが当たり前」
 モクテルのグラスを下げてもらい、彗怜はアールグレイのポットを傾ける。テーブルの上に、ベルガモットの爽やかな香りが漂った。
「日本人は姓と名前を分けるけれど、中国人は大抵フルネームで呼び合うからね。だって、姓で呼び始めたら、一体どれだけの張(チャン)さんや李(リー)さんがいると思う? 中国人の姓は、日本人の姓みたいに複雑じゃなくて、同姓が多いもの。日本風に『ウーさん』って呼ばれたら、中国では何人も振り返るよ。呉彗怜(ウースイリン)で一つの名前。だから、それがどこかで変わることなんて考えられない」
「その場合、子どもはどっちの姓になるの?」
「そこは話し合い。でも大抵は、夫の姓になるかな。うちの娘もそうだし」
 彗怜の娘は、上海出身の夫の姓を引き継ぎ、周(チョウ)というそうだ。
「話し合いで決着がつかない場合、夫と妻の姓を連結させる場合もあるよ。うちだったら、周呉(チョウウー)とかね」
「へえ……」
「韓国に至っては、伝統的に夫婦別姓。こっちは基本、改姓ができないの。子どもは原則として夫の姓だったけど、今は少しずつ変わってきているみたい」
 彗怜の博識に、涼音はすっかり感心した。
 と、言うか――。
 達也との結婚が具体化するまで、こうしたことをまったく知らなかった自分に、半ば呆れてしまう。
 しかし、こんな話を聞くと、結婚によって、夫婦のどちらかが強制的に自らの名前を失わなければならないことが、ますます不思議に思えてくる。
「じゃあ、なんで日本だけが、夫婦同姓にこだわっているんだろう?」


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