老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 

「女性男性に限らず、どちらかが本名を失うっていうのは……」
「つまりは、自分の名前に愛着があるってことね?」 
 涼音がぐずぐずと言いよどんでいると、香織が断定するように続けた。
「だったら、通称で遠山を名乗ればいいじゃない。仕事で旧姓を通称に使ってる人なんて、うちのホテルにもたくさんいるでしょ。私は夫の姓に改姓したけど、慣れてしまえば、別にどうってこともないし」
 母の麻衣子と同じようなことを言って、香織はヌードルをすする。
「確かに夫婦別姓問題は、最近いろんなところで話題になってるけど、今のところ、日本は夫婦同姓なんだから、結婚を決めた以上、そうするしかないでしょ」
 パクチーを箸でつまみ、香織は諭すように涼音を見やった。
「ただのマリッジブルーならいいけど、今になってそんなことを悩んでるなんて、飛鳥井さんには伝えないほうがいいと思うよ。相手のご家族の印象も悪くなるだろうし。結婚は二人だけでするものじゃないんだから」
 マリッジブルー?
 新たな概念の出現に、涼音は驚く。
 別に涼音は結婚に躊躇しているわけではない。『婚姻後の夫婦の氏』を強制的に決めなければいけないことに、単純に疑問を感じているだけだ。
 しかし、香織は本気で涼音のことを案じている様子だった。
「なんで、結婚って、いつまでたっても二人だけでしちゃいけないんですかね。今って、令和ですよ。家制度のあった、明治時代じゃあるまいし」
 これまでの会話の流れにあきれたように、朝子が吐き捨てる。
 さすがに香織がむっとした表情を浮かべた。サポーター社員たちがそそくさとビュッフェを取りにいき、アフタヌーンティーチームのテーブルが妙に静かになった。
「私も、料理取りにいってきます」
 朝子が勢いよく立ち上がる。
「ごめんね、遠山さん。せっかくの送別会なのに、変な雰囲気にしちゃって」
 涼音にだけは申し訳なさそうに頭を下げ、朝子はテーブルを離れていった。
「私も、ちょっと化粧室に……」
 気まずい雰囲気の中、ヌードルを食べ終えた香織が席を立つ。
 結局、涼音と瑠璃と、幸せそうに揚げ春巻きを食べている俊生が、アフタヌーンティーチームのテーブルに残された。
「ねえ、瑠璃ちゃん。最近、香織さんと山崎シェフ、なんかあったの?」
 黙々とパパイヤのサラダを食べている瑠璃に、涼音は囁いた。涼音がラウンジにいたときから、あまりうまくいっていない二人だったが、今日の衝突は、少々露骨すぎる気がした。
「実はこの間、クレイマーみたいな客がきて……」
 瑠璃が小声で話し始める。
 曰く、若い女性を伴った老齢の男性ゲストが、桜山ホテルの三段スタンドのアフタヌーンティーを邪道だと散々非難したのだという。
「本場のイギリスの高級ホテルでは、スコーンは温かいまま提供するから、コース仕立てなんだとか、やれサヴォイがどうした、やれクラリッジスがどうしたって、これ見よがしに大声出しちゃって」
 やれやれと、瑠璃は肩をすくめた。
 確かに、ロンドンのフォーマルなホテルでは、アフタヌーンティーをコース仕立てにしたり、二段スタンドにしたりして、スコーンを後出しにするところが多いようだ。
 だが、見た目の華やかさを重視して、桜山ホテルではあえて三段スタンドを採用している。そのため、スコーンはできるだけ焼きたてを用意するように、調理班もラウンジスタッフも気を配ってきた。
「でも、私がそれを説明したら、〝こっちは教えてやってるんだ〟って余計怒っちゃって」
 なにも知らない若い娘は黙っていろとまで言われたらしい。
「香織さんが対応に出たんですけど、シェフを呼べって聞かなくて」
「それで、山崎さんが呼び出されて、嫌な思いをしたとか?」
「いやあ、それがですねぇ……」
 香織が、アフタヌーンティー調理班の本当の中心であるスイーツ担当の朝子ではなく、セイボリー担当の秀夫に対応を任せたと聞いて、涼音は返す言葉を失った。
「実際、それしかなかったとは思うんすよ。あそこで、まだ三十代の山崎シェフが出ていっても、丸く収まったとは思えませんし。須藤シェフが出ていったら、ジイサンも満足したのか、機嫌直すどころか、今度は二人で古典菓子の話で盛り上がっちゃって」
 そこまで話すと、瑠璃は大きな溜め息をついた。
「それ以来、まあ、二人はあんな感じなんすよ」
 ラウンジのチーフである香織としては、最善の策を取ったつもりだったのだろう。しかし、そのときの朝子の気持ちを考えると、涼音は複雑だった。
〝女のシェフが残念がられるのは事実だから〟
 先刻の朝子の言葉が耳の奥に響く。
「だけど、スズさんって……」
 今度は瑠璃が声を潜めて囁いてきた。
「そういう人でしたっけ?」
「そういう人って?」
「えーと、こういう言い方していいのかどうかあれですけど、フェミの人っていうか……」
 フェミの人?
 先刻の『婚姻後の夫婦の氏』の話の延長だと思い当たり、今度は涼音がぽかんとする番だった。
「瑠璃ちゃんの言うフェミの人っていうのが、どういう意味合いなのかよく分からないけど」
 涼音は純粋に不思議になる。
「瑠璃ちゃんは、もし自分が林瑠璃でなくなるとしても、違和感はないの?」
「全っ然、ないっすねー」
 ところが、あっさり否定されてしまった。
「え、本当に?」
「ないない。マジ、ないっす」
 顔の前で、瑠璃はぶんぶんと手を振る。
「だって、自分、林っすよ、林。一文字だし、どこにでもある苗字だし。別に愛着なんてないっす」
 瑠璃はきっぱりと言い切った。
「逆に、スズさん、なんで飛鳥井姓が嫌なんすか?」
「嫌なんじゃないよ」
 どうもこの件は、なかなか相手に通じない。自分がおかしいのだろうかと、涼音はにわかに不安になった。
「飛鳥井なんて、かっこいいじゃないですか。憧れますよ、三文字姓。綾小路(あやのこうじ)とか、鬼龍院(きりゅういん)とか、西園寺(さいおんじ)とか、伊集院(いじゅういん)とか」
「林先輩、僕も三文字姓ですよ。長谷川」
 そこへ、まさかの俊生がにこにこと割り込んできた。
「うっせー、話に入ってくんじゃねえ、眼鏡」
 すかさず撃退しようとする瑠璃に、涼音は待ったをかける。
「あ、でも、男性の長谷川くんにも聞いてみたい。『婚姻後の夫婦の氏』で、夫婦のどちらかが改姓しなきゃいけないことをどう思う?」
「そうですねぇ……」
 俊生は少し真面目な顔になった。
「どちらかが我慢して改姓するのは、あんまりよくないですよねぇ。相手の女性がどうしても嫌だといったら、僕が改姓することはやぶさかではないですが、その女性が佐藤(さとう)だったら、さすがに躊躇しますよねぇ」
「はあ? なんで?」
 瑠璃が眉根を寄せる。
「だって、佐藤俊生(としお)ですよ」
 佐藤俊生……さとうとしお……砂糖と塩。
 思い至った瞬間、涼音も瑠璃も爆笑していた。
 涙が出るほどゲラゲラ笑っていると、料理を持ったサポーター社員たちがテーブルへ帰ってきた。やがて、香織も席に着き、和やかな雰囲気が戻ってくる。
 朝子が別のテーブルにいってしまったことは少し気になったが、涼音ももう、話を蒸し返そうとはしなかった。
 その後、あらかた料理を食べ終えると、涼音には祝福の言葉と一緒に抱え切れないほどたくさんの花束とプレゼントが渡された。
「ありがとうございます。本当にお世話になりました」
 涼音も感謝の気持ちだけを伝え、送別会は盛大な拍手と共に、お開きとなった。


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