老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 

〝そういうのは、とりあえず、男性を代表にしておけばいいのよ〟
 ふいに、先日の母の言葉が甦り、涼音はハッとした。
 途端に、胸の中のもやもやとしたわだかまりが、一つの形になっていく。
「婚姻後の夫婦の氏」を、結局、涼音は選ぶことができなかった。達也は現在農家との契約に忙しく、日本全国をあちこち飛び回っている。昨日からは、北海道に出張中だ。
 帰ってきたら、「婚姻後の夫婦の氏」について、改めて相談しなければならない。
 しかし、相談したところで、達也は自分の姓を変えることなど、露ほども考えていないだろう。涼音とて、達也が「遠山」姓になることなど想像もできない。
「飛鳥井達也」の名前は、お菓子業界では一つのブランドだ。
 お店の屋号に「飛鳥井」を使うことは、涼音もまったく異存がなかった。
 だけど、それと同じくらい、「遠山涼音」がこの世からいなくなってしまうことにも、違和感を覚えるのだ。
 今やマイナンバー制度で、あらゆることが個人に紐づけされているはずなのに、どうして、家庭に〝筆頭〟や〝中心〟が必要なのだろう。そして、何故に、〝代表は男性にしておけばいい〟ということになるのだろう。
 皆がやっていることなのだから、雛形通りにやっておけ。それで困ったことは一度もない。母はそう断言していたけれど。
「どうしたんすか、スズさん。あんま、食べてないじゃないですか」
 揚げたての春巻きを大皿に盛りつけて、瑠璃がテーブルに戻ってきた。香織と秀夫は、タイヌードルのブースに並んでいる。
「わあ、林先輩、ありがとうございます。僕、タイ風の揚げ春巻き大好きなんです」
 俊生が嬉しそうに顔を輝かせた。
「うっせー、眼鏡。別におめーのために持ってきたんじゃねーよ」
 口では腐しつつも、瑠璃は大皿を俊生の近くに置いてやっている。
 長年、ラウンジで最年少だった瑠璃にとって、俊生は久しぶりにできた年若の後輩だ。少々どんくさいところのある俊生を、ラウンジでもたびたびさりげなくフォローしていた。
「山崎シェフ、熱いうちに食べてくださいね」
 少し暗い顔をしている朝子にも、すかさず声をかけている。パリピを自称していながら、実は瑠璃は空気をしっかり読む、気配り上手でもあった。
「スズさん。料理、口に合いませんか」
「そんなことない。すごく美味しいよ」
 俊生や朝子に続き、涼音も揚げ春巻きを自分の皿に取る。甘酸っぱいチリソースをつけてかじれば、さくさくとした衣の中から、海老のすり身がぷりっとはじけた。
「ただね、須藤シェフの挨拶を聞いてたら、ちょっとね……」
 涼音は小声で打ち明ける。
「私、別に飛鳥井シェフのあとを追うために、桜山ホテルを辞めるわけじゃないから」
 一瞬、余計なことを口にしたかな、と思ったが、
「そっすよねー」
 と、瑠璃は淡々と頷いた。
「新しいお店は、スズさんのお店でもありますよね」
「瑠璃ちゃん!」
 ようやく自分の気持ちを分かってくれる人が現れたことに、涼音は感動を覚える。
「だって、スズさん、仕事大好き人間じゃないすか。そんなの、一番近くで一緒に働いてたんだから、よく分かりますよ」
「だけど、達也さんのお父さんはもちろん、うちの父までが、私のこと完全に添え物扱いなんだよ。みんなして、〝達也のお店〟だし」
 涼音は手短に先日の会食の様子を説明した。
「あー、それ、あるあるっすよ」 
 揚げ春巻きをつまみに、瑠璃がビールを飲み干す。
「須藤シェフにせよ、あの年代のオッサンたちは、頭ガチガチだからしょうがないっす。まともに取り合うだけ、疲れますって。でも、結婚さえしちゃえば、こっちのもんじゃないすか。同居するわけでもないし、たまに会うだけなら、割り切っちゃったほうの勝ちですよ」
 目蓋のラメをきらきらと光らせ、瑠璃はウインクしてみせた。このドライなまでの割り切りの速さもまた、涼音を感嘆せしめる瑠璃の個性の一つだった。
 この子なら、きっと上手にやるんだろうな――。
 涼音は半ば尊敬の眼差しで、きらきらメイクに彩られた瑠璃の顔を見返す。
「どうしたの? なんの話?」
 タイヌードルの碗を手に、香織が席に戻ってきた。酒飲みの秀夫は、男性スタッフが多いバンケット棟のテーブルに合流したようだ。
「いや、須藤シェフの挨拶、良くも悪くも昭和のオッサンの乗りだったなぁって話っす。飛鳥井シェフを盛り立てて~とか」
「ああ、それね」
 香草(パクチー)をたっぷり盛ったヌードルをテーブルに置き、香織が苦笑する。
「私もさっき、フォーを作ってもらってる間、〝今日は子どもは大丈夫なのか〟って、散々聞かれた。悪気はないんでしょうけどね」
「あるあるっすねー」
 瑠璃の相槌に、香織はそっと肩をすくめる。
「あんなに言われると、なんだか、こっちが悪いことでもしてるみたいな気分になっちゃう。ほら、須藤さんって、基本的にいい人じゃない。だから、余計にきついよね」
 その瞬間、涼音は痛く合点した。
 達也の両親も、涼音の両親も、〝いい人〟だ。そして本当に、達也と自分の幸福を願ってくれている。その人たちから無神経な言葉をぶつけられるのが、地味にきついのだ。
「あと、私、実はもう一つ、納得できないことがあって」
 涼音は思い切って、ずっと胸の中につかえている問題を吐き出してみる。
「結婚すると、なんで『婚姻後の夫婦の氏』を、強制的に選ばないといけなくなるんですかね」
 一瞬、テーブルの面々がぽかんとした。
 涼音の頭の中には婚姻届の雛型が浮かんでいたが、若い瑠璃や俊生には今一つピンとこなかったようだ。
「ああ、夫婦同姓のことね」
 既婚者の香織が頷く。
「遠山さんには、なにか、自分の姓を残したい特別な理由があるの? ご両親から言われてるとか」
「いや、そういうことはないですけど……」
 戸惑う涼音に、瑠璃が問いかけてきた。
「あれ? スズさんって、確かお兄さんいませんでしたっけ?」
 頷けば、
「それなら、問題ないじゃない」
 と、香織がなんでもないように続ける。
「遠山姓は、お兄さんが残せばいいんだし」
「え?」
 そういう問題なのかと、涼音は絶句した。
「遠山さんが言ってるのは、そんなことじゃないですよね」
 そのとき、焦れたように朝子が口をはさんできた。
「夫婦同姓って、結婚したら、大抵改姓させられるのは女性のほうですよね。それが納得できないって話なんじゃないんですか?」
 いささか尖った眼差しで、朝子がテーブルの面々を見回す。その視線は、特に香織に当てられていた。
 あ、まずい……。
 涼音はひやりとする。
 実のところ、チーフとして復帰した香織と、シェフとなった朝子の相性は、あまり円満とは言えなかった。達也と共に華麗なアフタヌーンティーを開発してきた香織の眼には、朝子の得意とする和スイーツが地味に映り、仕事一筋の朝子の眼には、子どものために早退や遅刻を繰り返すワーキングマザーの香織の姿が、歯がゆく映っているようだった。
「いや、それともまたちょっと違うんですけど」
 テーブルがおかしな雰囲気になってきたことに、涼音は焦る。
 涼音自身がわだかまりを覚えるのは、女性が改姓させられることではなく、どちらかが強制的に改姓しなければならないことだ。遠山涼音がいなくなることにも実感が伴わないが、飛鳥井達也がいなくなることも考えられない。
 それをどう説明すれば、うまく伝えることができるのだろう。


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