老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 

 これまで、ラウンジのスタッフは全員女性だったが、最近はそこに、新たに男性サポーター社員が加わった。
「あのー……」
 その唯一の男性ラウンジスタッフである長谷川(はせがわ)俊生(としお)が、もじもじと声をかけてくる。
「僕、飛鳥井シェフとは全然重なってないんですけど、皆さんと一緒に伺ってもいいでしょうか」
「もちろん!」
 涼音が即答すると、俊生は心底嬉しそうにぱあっと頬を染めた。
「実は僕、飛鳥井シェフのお菓子、一度食べてみたかったんです」
 黒縁眼鏡をかけた俊生は百八十センチ近い長身だが、どこかなよやかで大柄な男性に特有の圧がない。まだ二十代前半の俊生は、圧迫面接に屈して新卒入社に失敗した末、このラウンジへたどり着いたと聞く。
「美味しくて有名ですよね。飛鳥井シェフの特製菓子(スペシャリテ)」
 にこにこと微笑んでいる俊生の様子を、涼音は改めて眺めてみた。
 度の強いロイド眼鏡に、坊ちゃん刈りのようなもっさりとした髪型。
 外資系ホテルのラウンジにいるスタイリッシュな黒服男性からは程遠いが、素朴で丁寧な俊生の接客は、桜山ホテルの常連層の老齢の婦人たちにそこそこ受けがよかった。
「やあ、遠山さん、瑠璃ちゃん。遅くなって、申し訳ない」
 そこへ、須藤(すどう)秀夫(ひでお)や山崎(やまさき)朝子(あさこ)等調理班のスタッフが、バンケット棟のスタッフたちと一緒にどやどやとやってきた。
 あっという間に、店内が人で一杯になっていく。
「タイ料理だって? うまそうな匂いだな」
 胡麻塩頭の秀夫が鼻をうごめかせた。
 秀夫は一度定年退職した後(のち)に、シニアスタッフとして、アフタヌーンティーの食事系(セイボリー)メニューを担当しているベテランシェフだ。
「遠山さん、久しぶり……って言っても、まだ一か月経ってないか」
 達也のあとを受けて、現在、桜山ホテルのラウンジのスイーツのチーフ――シェフ・パティシェールを務める朝子が白い歯を見せる。
「須藤さん、山崎さん、皆さん、お疲れさまです」
 涼音は立ち上がって頭を下げた。
「すみません。お忙しい中、いらしていただいて」
「いやいや、『蛍の夕べ』も、ようやく一段落したからね」
 秀夫の言葉に、涼音は水辺を飛び交う蛍の情景を思い出す。「蛍の夕べ」が終わっても、七月のお盆の時期まで、庭園の茂みのどこかに、あえかな明滅を眼にすることがあった。
 四季折々の宝物が潜む広大な日本庭園を毎日のように散歩できなくなったのは、少々心残りだった。
「須藤シェフ、お疲れさまっすー。皆も集まりましたし、改めて、乾杯の挨拶をお願いできませんか」
 瑠璃の提案に、店内から拍手が沸き起こる。
「それでは、僭越ながら」
 香織から注いでもらったビールを手に、秀夫が皆の前に立った。
「えー、本日はお日柄もよく……」
 杓子定規な常套句から始まった挨拶は、途中から徐々に熱を帯びてくる。涼音がいかに熱心にアフタヌーンティーの開発に取り組んでいたかを、秀夫は滔々と語り上げた。
「当初から、遠山さんのアフタヌーンティーに対する情熱と創造性は群を抜いたものがあり、我々調理班にとっても、大きな刺激と励みでした」
 聞いているうちに、涼音は段々居心地が悪くなってきた。 
〝もう少し、普通でいいんじゃないかな〟
 涼音のクリスマスアフタヌーンティーのプレゼンに秀夫が半笑いしていた過去など、まるでなかったみたいだ。
 あの頃は、私も張り切り過ぎで周囲が見えていなかったんだけれど……。
「遠山さんのような優秀なスタッフを失うことは、私たちにとっても大きな損失であるわけですが、かつてラウンジから巣立っていった飛鳥井シェフのあとについていくというなら、止める手立てなどございません!」
 ここで秀夫は紙ナフキンで涙をぬぐう真似をした。周囲からはどっと笑い声が起こったが、涼音は内心、違和感を覚える。
 達也のあとについていく?
 独立するのは、涼音もまったく同じなのだが。
「この際、桜山ホテルのラウンジから、このように素晴らしいカップルが誕生したことを、私たちも共に喜ぼうではありませんか」
 涼音の送別会の挨拶というより、なんだか結婚式のスピーチのような塩梅になってきた。
「結婚にも、パティスリーの経営にも一度失敗している私が言うのもなんですが、個人店舗の経営には、家族の理解と応援が必要不可欠です。ぜひ、遠山さんには、ラウンジで培ってきた才覚を生かし、飛鳥井シェフを盛り立てていっていただきたい」
 これは完全に、内助の功とか、達也くんをしっかり支えろとか言っていた、達也の父と弘志と同じ乗りだ。
「遠山さん、本当におめでとう」
 だが、満面の笑みでそう言われると、涼音も笑顔で応じるしかなかった。
「それでは、遠山さんの新たな門出を祝って、乾杯!」
 再び店内にグラスのぶつかる音が響く。
 新しく加わったスタッフたちのテーブルに、挨拶がてら涼音はビールを注ぎに回った。
「やあ、遠山、久しぶり」
 その中には、バンケット棟で共に働いていた同期の男性スタッフもいた。
「ラウンジに異動して、シェフ・パティシエを捕まえるなんて、お前もやるじゃん」
 笑いながら肩をたたかれ、思わず身を引きそうになる。
〝なんか知らないけど、変に頑張っちゃってさ……〟
 早速ビールを一気飲みしているその男は、涼音が社内の接客コンテストで優勝したとき、背後でそう囁いていたスタッフだった。
「おい、お前らも頑張れよ」
 同期の男性スタッフが、バンケット棟の新卒入社組の女性スタッフたちに言いかけ、
「……って、今のラウンジのシェフは女性なんだっけ。ザーンネーン」
 と、おどけてみせた。
 涼音の胸に、もやもやとした不快感が込み上げる。
 接客コンテストで頑張ったことを腐した男が、新卒入社の女性スタッフたちに、なにを〝頑張れ〟とけしかけているのだろう。
「遠山さん、ご結婚おめでとうございます」
 しかし、当の若い女性スタッフたちから次々とお辞儀され、強い言葉を口に出すことはできなくなった。
 内心辟易としながら元のテーブルに戻った瞬間、朝子と眼が合ってしまう。涼音が気まずく視線をさ迷わせると、「大丈夫」と肩をすくめられた。
「飛鳥井シェフと比べて役不足だと思われるのは、今に始まった話じゃないし」
 やはり、「ザーンネーン」という同期の台詞が耳に届いていたのだろう。
「いや、さっきのはそういう話じゃなくて」
「でも、女のシェフが残念がられるのは事実だから」
「そんな……」
 涼音は言葉を詰まらせた。
 長年、スー・シェフを務めてきた朝子には、未だに〝達也の後釜〟と思われてしまう嫌いがある。ホテルのラウンジのシェフ――チーフ――に女性が少ないことも、そこに拍車をかける原因になっていた。
 その鬱屈が決して小さなものではないことを、涼音は理解しているつもりだ。
 自分と達也の独立も、完全に達也マターになっている。
 義父や実父だけでなく、送別会でも、涼音は達也を「捕まえ」て、「あとについて」いき、「盛り立てて」いくことになっている。涼音の主体は限りなく薄い。


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