老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 

「それでは、スズさんの前途を祝して、カンパーイ!」
 林瑠璃の威勢のいい掛け声に合わせて、あちこちでグラスのぶつかる音が響いた。
 生春巻き、青パパイヤのサラダ、トムヤムクン、海老のすり身を載せたトースト、空芯菜のオイスターソース炒め……。色とりどりのタイ料理のビュッフェが並ぶ店内は、今夜は貸し切りだ。アジアンリゾートを思わせる内装の店内には、ガーリックやハーブやナンプラーの食欲をそそる匂いが漂っている。
 六月の下旬、今年オープンしたばかりのタイレストランで、桜山ホテルのスタッフたちが、涼音の送別会を開いてくれた。
 パリピ――パーティー大好き人間――を自称する瑠璃のセレクトだけあり、お店は朝の五時まで営業しているという。
「どうすか、スズさん。今夜はオールでもオッケーですよぉ」
 主賓の涼音以上に乗り乗りの瑠璃が、大皿にタイ風焼きそば(パッタイ)を山盛りにしてテーブルに戻ってくる。
「オールは、ちょっと無理かなぁ」
 タイビールのグラスを片手に、涼音は苦笑した。
 バンケット棟の宴席係からホテル棟のアフタヌーンティーチームに異動して以来、瑠璃はラウンジで最も長く一緒に働いた同僚だ。まだ二十代と年齢は若いが、ラウンジでのキャリアは涼音より長い。
 初めて瑠璃を見たとき、まるでフランス人形のような可愛らしい容姿に、涼音は軽く衝撃を受けた。さすがは入社初年度にホテルの顔であるラウンジに配属されるわけだと、羨望に近い感嘆を覚えた。
 ところが、一緒に働き始めてすぐに、瑠璃が所謂〝詐欺化粧(マジックメイク)〟の達人であることを悟らされた。毎朝就業時刻ぎりぎりに現れる、ぼさぼさ頭の眉のない女性が瑠璃だとは、初日には気づけなかったほどだ。「うおっしゃあ」というかけ声と共に、ロッカールームで手早く大変身する瑠璃の姿に、涼音は改めてつくづく感心した。
 今日の瑠璃は、ラウンジのときとはまた違う、いかにもパリピなラメ入りギャルメイクで装っている。
「でも、瑠璃ちゃん。いいお店見つけてくれてありがとう。ホテルにも近いし、料理も美味しいし、内装もすてきだし」
 遅くまで働く調理班のスタッフたちが、途中からでも気兼ねなく参加できるビュッフェ形式のお店にしてもらえたのは、大正解だったと涼音は思う。温かい料理も次々と補充されるし、好きな具材と麵の種類を選ぶと、その場で作ってもらえる屋台風タイヌードルのブースも楽しい。
「だっしょう? 今、この店、うちらの間でも一推しなんすよねー」
 瑠璃が鼻を高くする。
 スパイシーなタイフードとタイビールを楽しみながら、涼音は馴染みのアフタヌーンティーチームのスタッフたちとおしゃべりに花を咲かせた。
「それじゃあ、結婚式は挙げないことにしたの?」
 ラウンジのチーフを務める園田香織からの問いかけに、涼音は頷く。
「開店準備とか、色々と物入りなんで……」
「個人店舗はオープンまでが大変だものね。確かに、結婚式とかやってる場合じゃないかも。男性って、そういうの、全然協力的じゃないから」
 自分のときのことを思い出したのか、香織が眉間にうっすらとしわを寄せた。
「あー、飛鳥井シェフも興味なさそうっすねー。ウエディングケーキ作りならともかく、人前に出なきゃいけない結婚式となると」
 パッタイを頬張り、瑠璃もうんうんと頷く。
「飛鳥井シェフ、自分の送別会ですら、調理場に引っ込んで、なかなか出てこようとしなかったすもんね」
「うちの旦那や飛鳥井さんに限らず、男性って、なぜか結婚式の準備とかは大抵女性に丸投げなのよ」
「へー、そういうもんすかねー」
 涼音は二人のやりとりを眺めながら、以前、瑠璃と一緒に育児休暇中の香織を訪ねたことを、ぼんやり思い返した。当時、四十代で初めて子どもを出産した香織は、〝ママ友ができない〟と嘆いていた。
 周りは一回り以上違う二十代や三十代のママばかりで、そこへ入っていくことができない。会社から一歩外に出ると、自分はただの〝高齢出産者〟でしかないと――。
 涼音が桜山ホテルへの入社を目指したのは、新卒採用情報ページで、香織のインタビューを読んだのがきっかけだった。
 輝かんばかりの笑顔で香織が語っていた「季節ごとにテーマを変えるアフタヌーンティーの開発」という言葉に、涼音は完全にノックアウトされた。
 日本で初めて本格的なアフタヌーンティーを提供したといわれる桜山ホテルの伝統のラウンジで、なんとしてもアフタヌーンティーの開発に携わりたいと熱望した。
 念願かなって桜山ホテルに新卒入社したものの、最初はホテル棟ではなくバンケット棟に配属された涼音を、ラウンジスタッフに抜擢してくれたのは、産休と育休に入ることになった香織だった。涼音は香織の後任という形で、アフタヌーンティーチームに加わったのだ。
 その恩人でもあり、憧れの先輩でもあった香織が、ワンオペ育児ですっかりやつれ切っていることに、あのとき、涼音は少なからぬショックを受けた。
〝もし子どもが欲しいなら、出産は早いほうがいいと思う。とにかく、体力もいるしね〟 
 海外セレブの高齢出産に勇気づけられていた自分が言えた義理ではないのだけれど、と、言いづらそうに、しかし、しみじみと告げられた言葉は、今も涼音の心のどこかに引っかかっている。あれは、香織の経験から出た本音だったのだろう。
 涼音にとっても他人事(ひとごと)ではなかった。
 一番気力も体力も充実する三十歳前後(アラウンドサーティー)が出産適齢期であるという事実は、どれだけ時代が変わっても、そうそう変えられるものではない。
 今年、涼音は三十三歳になる。
 今まさに新たな夢を目指そうとしているのに、あと数年で、動かしがたい高齢出産の壁がやってきてしまうのだ。焦りを覚えないと言ったら、嘘になる。
 夢を追うのも、結婚するのも、出産するのも、生きていくのって、結局大変だよな……。
 涼音は内心小さく溜め息をついた。
 現在、香織の子どもは四歳になった。まだまだ手はかかるものの、随分楽になったらしい。この日は、近所に住む義母(ばあば)の家に預けてきているそうだ。
「結婚式の代わりに、店のオープン記念でちょっとしたパーティーはやろうと思ってるので、その際は、ぜひ皆さんもいらしてくださいね」
 気持ちを切り替えて、涼音はテーブルに集まっているアフタヌーンティーチームの面々を見回した。
「わあ、嬉しい」「飛鳥井シェフのケーキ、懐かしい」
 途端に、サポーター社員と呼ばれるパート制のラウンジスタッフたちからも歓声があがった。長い歴史を持つ桜山ホテルのラウンジは、実のところ、ほとんどが非正規の契約社員たちによって支えられている。このテーブルについているのも、チーフの香織と古株の瑠璃以外は、全員がサポーター社員だ。
 香織が入社した当初は正社員のほうが多かったと聞くから、恒常的な不景気の間に、ホテルの顔であるラウンジのスタッフの比率も、大きく変わってきたということなのだろう。
〝正社員はいいよね。雇いどめはないし、産休もとれるし、もちろん育休もとれる〟
 ふと、優秀なサポーター社員だった呉彗怜(ウースイリン)の怜悧な眼差しが甦り、涼音の胸がちくりと痛んだ。
〝でも、正社員が手厚い保護を受けている間、その穴埋めをしてるのは一体誰? 契約や派遣の非正規スタッフなんじゃないの?〟
 今では彗怜は転職した外資系ホテルのラウンジでチーフを務めているが、かつて投げつけられた問いかけには、未だに明確な最適解が見つからない。
 このテーブルでにこやかに談笑しているサポーター社員の中にも、彗怜と同じような思いを胸に秘めているスタッフがいるのではないかと、涼音は密かに考えた。


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