老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 

 ところが検索をしかけた矢先に、母の麻衣子から連絡が入った。何事だろうと、涼音はスマートフォンを耳に当てる。
「もしもし」
「ああ、涼音? この前、あなた宛ての郵便物を渡そうと思ってたんだけど、忘れちゃって」
「あれ? 郵便局に転送届は出したんだけど、まだ、そっちに届いちゃってるんだ」
「ざっと見た感じ、急ぎのものはなさそうだけど」
「それじゃ、近いうちに取りにいくよ。まだ、運んでない荷物もあるし」
「そうしてちょうだい。おじいちゃんも、あなたがいなくて寂しがってるから」
 おじいちゃん……。
 涼音の脳裏に、大の甘党の滋の姿が浮かんだ。今度帰るときは、お土産に達也の作った焼き菓子を持参しようと思った。
 そのまま色々と話をするうちに、涼音は先日の会食に対する不満をこぼしたくなってきた。
「この間のスキヤキ、全然食べた気がしなかった。達也さんのお父さん、なんだかんだ言いつつ、私のこと完全に〝嫁〟扱いなんだもの」
「そりゃ、仕方ないわよ」
 一緒に憤慨してくれるかと思ったのに、麻衣子は諭すように言う。
「結婚は二人だけの問題じゃないんだから。地方出身の一人息子さんと結婚する以上、それくらいの覚悟はしないと」
「えー、お母さんも一人息子と結婚してるけど、そんな覚悟したの?」
「うちはおじいちゃんの出自が特殊だし、おばあちゃんも穏やかな人だったから、そういう問題はそんなになかったけど。その分、姉からは、私は楽してるだの、ずるしてるだの、散々言われたわよ」
「え、本当に?」
「本当よ」
 麻衣子の声に溜め息が混じった。
「あなたは親戚が少なくて楽なんだから両親の介護をやれって、当たり前のように言われたし」
 麻衣子が母方の祖父母の病院付き添いを最後まで一人でしていたことを、涼音も思い出す。その背景に、滋が戦災孤児だった過去が絡んでいたとは今の今まで知らなかったが。
「でも、お父さんもお父さんだよ。私のこと、〝もらっていただける〟だって」
「まあね……」
 それには、麻衣子も苦笑いした。
「ただ、あの日、お父さん、すごく緊張してたから。飲めないお酒も無理やり飲んで、酔っぱらってたし」
「だけど、あれじゃ、嫁扱いしてくれって、こっちから言ってるようなものだよ」
「それでも、お父さんがあなたの幸せを願ってることに変わりはないんだから」
 そう言われてしまうと、涼音もこれ以上愚痴をこぼすことはできなかった。
「ねえ、お母さん。話は変わるけど」
 涼音は書きかけの書類に眼を移す。
「今、婚姻届の準備をしてるんだけど、戸籍筆頭者と世帯主って、どう違うの?」
「えーと、なんだったっけ。両方とも家族の代表者ってことなんじゃないの」
「お母さん、結婚してるのに分かんないの?」
「そういうのは、とりあえず、男性を代表にしておけばいいのよ。確か、戸籍筆頭者っていうのは、苗字が変わる人はなれないはずだし」
「なんで?」
「なんでもなにも、皆がやってることなんだから、雛型通りに書いておけばいいのよ。お母さん、それで困ったことなんて、一度もなかったし」
 随分と適当だ。
 涼音が黙していると、麻衣子が忍び笑いを漏らした。
「なに?」
「いや、変わってないなと思って」
 麻衣子が笑いながら続ける。
「あなたって、子どもの頃から、いろんなこと、なんで、なんでって聞いてくる子だったから。答えようのないことまでしつこく聞いてくるから、お父さんと二人で結構参ってたのよ」
 幼少期の記憶がぼんやりと甦る。皆から鬱陶しがられる子どもだった自分に、最後まで辛抱強く、色々なことに答えてくれたのは、やはり、祖父の滋だった。
 明確な答えは出なくても、疑問に感じることを一緒に考えてもらえるだけでも嬉しかったことを覚えている。
「そんなに気になるなら、自分でちゃんと調べなさい」
 もとよりそのつもりだが、実際に結婚している母が、意外と無頓着なことに驚いた。
 とりあえず、近いうちに実家に帰るので、祖父によろしく伝えてくれるようにと念押しをして通話を終わらせた。
 早速、スマートフォンで戸籍筆頭者と世帯主を調べてみる。
 戸籍筆頭者――戸籍の最初に記載されている人。原則として、婚姻の際に氏を変えなかった側のものを言う。
 世帯主――世帯の中心となる人。所帯主。
 結局、なにがどう違うのかよく分からない。涼音は頭を抱えた。
 どちらにせよ、筆頭とか、中心とか、家族に優劣をつけるみたいで、あまりよい感じはしないけれど。
 とりあえず、男性を代表にしておけばいい。それで困ったことは一度もない。
 先刻の母の言葉を反芻し、本当にそんなに適当でいいのかと、涼音は眉根を寄せる。
 詳細は後で調べ直すことにして、雛型と照らし合わせながらもう一度記入欄を見ていった。
「婚姻後の夫婦の氏」という欄で、雛型に従い「夫の氏」のほうにチェックを入れそうになり、はたとペン先がとまる。
 あれ?
 今、どうして自分は当たり前のように、「夫の氏」を選ぼうとしたのだろう。雛型がそうなっているということもあるし、ほとんどの場合はそちらを選ぶのかもしれない。
 達也のプロポーズを受け入れたとき、自分が飛鳥井姓になることを、考えなかったわけでもない。
 だけど。
 ここにチェックをつけたら、〝遠山涼音〟はこの先どこへいってしまうのだろう。
 改めてそう考えると、突如、これまでたいして意識していなかった大きな喪失感が押し寄せてきて、涼音は暫し茫然とした。

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