老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 

 週明け、涼音は新居の二階の作業デスクで、朝からずっとパソコンとにらめっこをしていた。
 ティーカップ、ティーポット、ティーコージー、ピッチャー、カトラリー……。
 店で使用する茶器や食器を選ぶのは、涼音の担当だ。本来なら、本場英国のヴィンテージをそろえたいところだが、あいにく、それほどの予算はない。けれど、ポットはもちろん、カップの厚さや薄さによっても、お茶の味は大きく異なる。
 たかが入れ物、されど入れ物。器を侮ることはできない。
 近々、合羽橋の問屋街を回ってみようと考えながら、涼音はたくさんのホームページの中から、目ぼしい店舗をチェックした。
 この日、達也は顧問税理士と一緒に、銀行に出向いている。昨夜、涼音は達也から、屋号のことで相談された。まだ正式に店名を決める必要はないが、店用の口座を作るに当たり、屋号が必要になるのだそうだ。
〝とりあえず、シンプルに『飛鳥井』にしておこうかと思うんだけれど、いいかな?〟
 達也に尋ねられ、涼音は「いいと思う」と即答した。
 東京で一番初めにアフタヌーンティーを提供したと言われる桜山ホテルのラウンジの元シェフ・パティシエで、日本でも人気のあるブノワ・ゴーランが経営する南仏のパティスリーで更に経験を積んだ飛鳥井達也の名前は、お菓子業界ではよく知られている。新店舗を軌道に乗せていく上で、そのネームバリューを利用しない手はない。
〝ホテル勤めならともかく、個人の菓子店なんかで本当に経営が成り立つのか?〟
 会食時の達也の父の言葉が甦り、涼音は軽く口元を引き締める。
 個人パティスリーの経営が簡単ではないことくらい、自分も達也も十二分に理解しているつもりだ。 
 それにしても、週末の会食はなかなかに気疲れした。
〝うちの親父が好き勝手なことばっかり言って、本当にごめん〟
 二人きりになるなり、達也が真剣に謝ってくれたが、この先が思いやられる。もっとも、〝好き勝手なこと〟を言われていたのは自分だけでなく、達也も同様なので、仕方がないことのようにも感じられる。
〝どの道、茨城とは距離もあるし、今後はたいして関係ないけどな。あの年代の親父に、今更、なにを言っても無駄だから〟
 しかし、距離と年代を理由に、〝なにを言っても無駄〟と開き直られてしまうのは、それはそれで違う気もするのだが。
 少し休憩がしたくなり、涼音はパソコンを閉じて席を立った。
 キッチンに入り、備え付けの棚をあける。小花模様入りの昭和ガラスの引き戸の奥に、今後店でも出そうと検討している紅茶の缶がいくつも並んでいる。
 暫し考え、涼音はルールコンドラの茶葉を選んだ。ルールコンドラは、スリランカで最古と言われている茶園でのみ栽培している希少な茶葉だ。強い香りと渋みが特徴で、ミルクティーにも適している。
 この日、涼音はルールコンドラに豆乳を合わせてみることにした。ミルクパンで豆乳を温め、ロイヤルミルクティー風に茶葉を煮出す。
 ハシバミ色のソイティーをマグカップに注ぐと、温かな香りが鼻腔をくすぐった。
 うん、美味しい――。
 一口飲んだ瞬間、自然に口角が上がる。甘みのある濃厚な豆乳が、ルールコンドラのこくを引き立てていた。
 蜂蜜を垂らしてみてもいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、涼音はマグカップを手にデスクに戻ってきた。ふと、デスクに積まれた書類に眼をやる。婚姻届を出すための書類だ。
 そろそろ、こちらにも手をつけなければならない。
 涼音は書類を検(あらた)めてみた。
 婚姻届、本人確認の証明書、印鑑、それから達也の戸籍謄本……。必要なものはあらかたそろったようだ。
 ちょっと記入してみようかと、涼音は婚姻届と雛型をつき合わせる。ソイティーを飲みつつ、記入欄を一つ一つ確認した。
 新住所、新世帯主、現本籍と新しい本籍……。
 こうして書類の準備をしていても、夫婦となる二人は自動的に現在の戸籍を抜けて、自分たちの新しい籍を作ることになるのは明白なのに、どうして、人はいつまでも結婚を〝入籍〟と称するのだろう。考えてみれば、芸能ニュースでも結婚報道のたびに、入籍、入籍と繰り返される。
 籍を入れることになりました、と、指輪を見せながら頬を染めるアイドルの姿も幾度となく見てきた。
 自ずと、左手に視線が走る。
 深い湖のように、どこまでも澄んだ碧(あお)。シンプルな一粒石だけれど、カットの美しいブルーサファイアが薬指で輝いている。涼音の瞳には、それが達也との新しいスタートの印に映った。
 前向きな気持ちで、涼音は書類に記入を始めた。間違いがあってはいけないと、一つ一つ雛型をしっかりチェックする。
 書類を確認するうちに、しかし、涼音は途中で「ん?」と首を傾げた。
 戸籍筆頭者と世帯主って、なにがどう違うのだろう。
 マニュアルをひっくり返すが、あまりに丁寧に説明されていて、却ってよく分からない。スマートフォンで調べたほうが早いと感じ、涼音はデスクの先に手を伸ばした。

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