古い神社に生まれ祝詞や歌を聞いて育つ

私が生まれたのは伊勢と大和の国境、今の地名でいうと三重県津市美杉町の、山奥です。雲出(くもず)川の源流に近い場所に岡野の祖先が開いた若宮八幡という神社があり、父は神官の家の34代目でした。

近隣の村からは3キロ近く離れており、神社と神主の家、参拝に来る人のための土産物屋が2、3軒あるだけの、まさに人里離れた場所です。毎日、スギやヒノキが鬱蒼と茂る山を下って村の小学校まで行き、帰りは山を登らなくてはいけない。父が紀州犬を飼うようになってからは、私が下校する頃に犬を放ち、村境の橋のところで犬が待ってくれていました。

私の子ども時代はまだ電気が引かれておらず、石油ランプでの生活です。近隣には友達もいない環境でしたから、母が出版社から直接購入してくれ、毎月3冊届く『小学生全集』をむさぼるように読んでいました。

家が神社でしたので、始終、父があげる祝詞(のりと)を聞いているわけです。祝詞の大事な要素のひとつが和歌。心を凝縮し、五七五七七の定型の形で、神様、祖先、あるいはもっと広く日本人全体に思いを伝える。それに子どものときから馴染ませてもらったことが、私の基礎をつくったと思います。

父は『百人一首』も好きで、家じゅうの者や働いている女衆も一緒に、よく『百人一首』のカルタ取りをしていました。小さい頃は札を取れませんでしたが、一枚札の「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」を教えてもらうなどして、だんだん取れるようになる。すると楽しくてね。

『百人一首』には、けっこう色っぽい歌もあります。「黒髪のみだれて今朝はものをこそ思へ」とか、子どもには意味がわからない(笑)。でも、誰に教えられたわけでもないのに、「霧たちのぼる僕の恋人」なんてこましゃくれたことを言ってました。

歌というのは、道徳観とか倫理観とは別のところにある。そういう感覚を、知らずしらずのうちに身につけたのだと思います。そのうち自然と、小学校の行き帰りの山道を歩きながら歌を詠むようになりました。

中学からは伊勢市の神宮皇學館に入学し、寮生活を送るようになりました。皇學館は神官を育てる学校で、『古事記』『日本書紀』『万葉集』なども徹底的に教わりますし、「作歌」の時間もあります。

その頃、国文学者、民俗学者の泰斗である折口信夫先生――歌人としての筆名は釈迢空(しゃくちょうくう)ですが――の存在を知りました。