「人が死ぬというのは、まぎれもなく自然なこと。それすらタブー視して覆い隠し、人工物だらけの世界をどんどん拡張させている現代社会のほうが心配です」

死についても同じことが言えるでしょうね。死は、生と矛盾したもの。死と折り合うことが、生きることだと思います。

生きている以上、ある程度の「覚悟」は必要なんですよ。比較的若いときから死を考えたことがないと、人は不安になるものです。どうせなら最悪の状況が起こっても大丈夫、と一度想定して覚悟を決めておくのも、不安と折り合う一つの方法ではないでしょうか。僕は「年をとったらあとは死ぬだけだ」と覚悟しているので、何の不安もないですね。

中世のキリスト教修道院の修道士たちの挨拶に、こんなものがあります。「メメント・モリ」と一方が言うと、「カルペ・ディエム」と返す。前者は「死を思え」、後者は「その日を摘め」。つまり「いつか必ず死ぬことを忘れるな」、そして「今日の花を摘むように、今日を十分に生きよ」と声をかけあうわけです。

西洋絵画では、頭蓋骨を美しい静物画の中へ描き入れたり、書斎の机に飾ったりしたものがある。ローマには4000体の骸骨を装飾に使った骸骨寺が目抜き通りにある。これも日常生活で、「死を思え」という意識の表れでしょう。

僕は、仕事でつねに遺体を間近に見てきましたから、毎日がメメント・モリだった。人が死ぬというのは、まぎれもなく自然なこと。それすらタブー視して覆い隠し、人工物だらけの世界をどんどん拡張させている現代社会のほうが心配です。

 

『なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた』(養老孟司:著/中央公論新社)