「母親なんだから」
長男はよく泣き、よく笑う赤ん坊だった。彼の笑顔を見るだけで、すべての苦労が報われるような気がした。しかし、体は正直だった。日増しに積み重なる疲労感は、私の心身のバランスを少しずつ崩しはじめた。元夫は、思いのほか息子をかわいがった。だが、それはあくまでも「自分に余裕がある時にお世話をする」程度だった。子どもは生き物であり、愛玩用のぬいぐるみじゃない。どれだけ余裕がない時でも、育児には休日も有給もなく、24時間続く。息子はかわいい。でも、育児は疲れる。
子育ての苦労をSNS上で吐露する母親に対し、「大変だとわかった上で産んだんじゃないんですか」と言う人がいる。そういう正論を見るたびに思う。大変だとわかって挑んだ事柄に対しては、「大変だ」と弱音を吐く権利もないのか、と。ましてや、育児においての大変さは人により千差万別だ。育てやすい子もいれば、育てにくい子もいる。よく寝るタイプの子もいれば、1時間おきに夜泣きをする子もいる。母親の健康状態をはじめ、頼れる実家や親戚・兄弟が身近にいるかどうかも人による。いざという時にベビーシッターを依頼できる経済力を、誰しもが持っているわけではない。
子育ては誰にとっても大変だ。だが、「楽しめる程度の大変さ」なのか、「生活が破綻するほどの大変さ」なのかによって、母親が抱く負担は変わる。それなのに、「みんな大変なんだから」という同調圧力が人を黙らせる。母親を孤独に追い込んだ先に待っている未来は、子どもにとって優しい未来にはなり得ない。しかし、そんなことはお構いなしで世間は正論をぶつけてくる。
母親なんだから。
そう言われるたびに、「母親」という箱の中に閉じ込められていくような心地がした。元夫は日常的に、なんの気なしにこの台詞を口にした。育児の大変さ、主に夜泣きの苦労を口にするたび、彼は言った。
「でも、母親なんだからさ。それはもう仕方ないよ」
じゃあ、あなたは何なの?父親であるあなたには、子育ての苦労を引き受ける責任はないというの?ーーそう言えればよかった。でも、言えなかった。代わりに口をついて出たのが、「簡単に言わないでよ」という皮肉だった。元夫はあからさまに不機嫌になった。不機嫌になるくらいなら、1日でいい、細切れじゃない睡眠を私に与えてほしかった。