息子たちからの手紙
翔大はこれまでも折々、よく手紙をくれる子だ。
面白いことに小学校卒業の時から中学卒業、高校野球が終わった時まで、なぜか書いてあることが要約するとほぼ同じ。むしろスゴイ。
それはそれは心を込めた感謝の言葉と決意が書かれている。字はわりと丁寧に書く方で、昔泣きながら学校で何度も書いて覚えた漢字を交えて、きっちり思いをしたためている。
瑛介はあまり手紙を書いてくれることはないが、
たまにもらうと一つくらい衝撃的な事実が書かれていて度肝を抜かれる。
「え!?そおだったの????」
でも全て過ぎ去ったあとの告白なのでちょっと固まる程度。やや心配に思える幼い字で、それくらい漢字で書けよ、な文章を書く。おばあちゃんの手紙の時は、なぜか一人でこそこそ隠れて書いていた。兄に見られるのが死ぬほど恥ずかしかったのか。
思ったより2人とも熱心に便箋に向かって書いていたのを、私は微笑ましく見守った。
兄家族側の姪とご主人、甥、全員分を納められる綺麗な箱の中に手紙を入れておばあちゃんに贈った。
母の嬉しそうな表情…と思ったら、よほど驚いたのか満面の笑顔というより「はぁぁ…みんながわたしに?手紙を?えぇーーっ!!?」な驚きの表情で手紙の箱を受け取っていた。
そしてそれは自宅に帰ってからも何日か続き、大事そうに何度も箱から出したりしまったりしては、何度も孫たちの手紙を読んで言葉をかみしめていた。
なんだか…私はこの人の娘だなぁと思う。
生まれた時から見てきた孫たち。すっかり皆大人になったが、彼らの字や言葉の選び方を、この手紙で初めて知ったのではないだろうか。
携帯の文字打ちと違って書くものが必要、間違えたら書き直し、封をするまで気の抜けない作業だが、その一つ一つに宛てた人を思って進める「時間と手間」のかかった言葉の贈り物は、受け取る人にもそれなりの構えを求めることになる(それを『重い』と言われるとそれまでなんだが)。
簡単に矯正できない字の癖も人となりで、その字体を見るだけで、驚いたり心配になったり、クスッと笑えたりする。
そんな機会が今ますます減っているとは…
本当にもったいない話だ。
今は家族みんなとLINEで繋がっていて、どこへいても「り(了解の意味の超絶略)」の一言だけで生存確認できる。
そういえば翔大が高校へ入ってしばらく、なんの問題もなさそうなことを書いてよこしていたのもLINEのメッセージ。でも実際は本人にとって相当苦しいことになっていたとは…私はなかなか気づけなかった。
親になってみるとやはり、子どもからの手紙は何度もらって嬉しいもの。しばらく外出用持ち物のバッグに常に入れて持ち歩いていた。
でもある時から次第にボロボロになっていくのが忍びなくて、今は大事なものを保管する場所に置いている。ここまで結構な量になってきたので、そろそろまた納め直しておかなくては。