フランスでの公演用に八代さんが描いたイメージ画(右)をもとに制作された着物を着た八代さんと(写真提供◎大内さん)

最期の最期にキラキラ光る涙を……

大内 12月に入ってから、検査の数値で引っかかるところが少しずつ出てきてしまいました。でも、スタッフはみな「絶対によくなる」と思ってた。ところがその後、だんだんお話ができない状態になって……。「急速進行性間質性肺炎」という病名がついていたことは後になって知ったのですが。

新田 12月30日に、「緊急な状況だから、すぐに病院に来られますか?」と事務所の方から連絡があり、急いで車で病院へ向かいました。僕は聡子さんを送り届け、自分は車のなかで待つつもりだった。ところが着いたら、「もう危険な状態だから、新田さんも上がってください」と言っていただいて、ご厚意で特別に会うことができました。

病室へ行くと、八代さんを取り囲み、みんなが口々に声をかけている状況だった。それぞれ八代さんへの思いを口にしていて、僕はひたすら感謝の言葉を伝えました。

大内 私も感謝とともに、八代さんに思い出していただきたくて、思い出話を語りかけました。

新田 あのとき、最期の最期に、八代さんが、キラキラ光る涙を一粒だけ流された。僕しか見ていなかったのかもしれないけれど、確かにこぼされた。それは、「ちゃんと声は聞こえているよ」ということなんだろうなと思いました。

大内 私は、息を引き取られてからすぐ、まだ肌にぬくもりのあるうちに、エンゼルメイクをさせていただいたのです。生前からお約束をしていたことなので、私なりの最後のお仕事をしっかりつとめ上げようと臨みました。

看護師さんたちが処置をなさるのと同時進行だったのですが、私のメガネに涙がボタボタと落ちて溜まってしまい、全然はかどらなくて。でも、葬儀社の方が迎えに来る時間が決まっていたから急がなくてはならず、胸が張り裂けそうでした。