外食券

毎回ってわけじゃないけど、ピアノのお稽古にママがついてくるときがあった。

そういうときは、キャラメルの自動販売機以上の楽しみがあって、お稽古が終わると、渋谷駅前の食堂に連れていってもらえた。

ママに「なにがいい」と聞かれると、トットはかならず「アイスクリーム!」と答えた。

いつものようにお稽古を終えて、渋谷のハチ公前の交差点を渡(わた)った向かい側、いまの109の手前にある大きな食堂に入った。

『続 窓ぎわのトットちゃん』(著:黒柳徹子/講談社)

トットたちは、1人で食事をしている若い兵隊さんと相席になった。トットは口のまわりをアイスクリームだらけにしながら、いろんなことをママに話しかけていた。

すると、先に食事をすませた若い兵隊さんが立ち上がって、トットたちに微笑(ほほえ)みかけてきた。

「これ、よかったらどうぞ」

ママに差し出した紙切れには「外食券」と印刷してあった。いろいろなものが少しずつ手に入りにくくなっていて、町の食堂でなにか食べるときは、この外食券が必要なことがあった。

トットは、このときはじめてそれを見た。

「こんな大切なもの、いただけません。困ります」

ママは恐縮(きょうしゅく)しながらそう言って、兵隊さんに返そうとしたけど、兵隊さんはママに外食券を押(お)しつけるようにして立ち去った。

このときのことを、トットは戦争が終わってからもよく思い出した。兵隊さんが1人で食堂にやってきたのは、戦地へ赴(おもむ)く直前だったからだろうか。

そこにトットたち親子連れがやってきて、楽しそうにアイスクリームを食べているのを見ているうちに、自分の幼い妹や親戚(しんせき)の子たちのことを思い出したのだろうか。

だから、外食券をママにくださったのだろうか。兵隊さんは元気で帰ってきただろうか。

アメリカとの戦争が始まったのは、その年の暮れのことだった。

そして、トットはいつの間にか、ピアノを習うのをやめてしまった。