「弱者はずっと不幸でいろ」という圧力
例えば、この記事が公開になった後、私がSNS上でカフェの写真をアップしたとする。そうすると、高確率で揶揄が飛んでくる。「カフェに行くお金、あるじゃないですか」と。それが自死を思いとどまった翌日で、パートナーが仕事を中抜けして私を保護するほどの状況で、「明日もどうにか生きていこうね」と2人で泣くのを堪えて無理やり笑いながら飲んだ珈琲だとしても、そういった内情は写真には映らない。
“私が元気になればなるほど、私が好きな格好をすればするほど、憎悪を膨らませる人がいる。だから、前の状況に留まり続けることが、人の心を触発しない唯一の方法のように思えたのだ。”
貧困家庭出身のライターとして、社会における貧困問題に言及するヒオカさんは、「ずっと最低限で質素な格好をしないといけない」という圧力を日々感じているという。通ってきた苦難の道を語るとき、その人が渦中にいることを求める人は多い。その残酷さに気付ける人は一握りで、当たり前の顔をして「不幸を売り物にしている」などと言う。
「苦労を語るなら不幸でいろ」と思っている人に問いたい。下を下げて、我慢を強いて、その先にある未来は明るいのか、と。
昨夜、私が見た悪夢。今しがた眼前に蘇った記憶。そういうものだけを求めて、私の悲鳴だけを欲して、地獄にとどまることを無意識で願っている人を見るたびにゾッとする。中には私の文章を読んで、私のことを「寂しそうだから、自分が慰めてあげなければ」という歪んだ解釈をする人もいる。そのことが何よりも悔しくて、屈辱的だ。私は、そんなことのために書いているわけじゃない。