なぜ豊臣家を滅ぼすのに15年もかかったのか

そう考えると、ここで新たな疑問が生じます。江戸と大坂、その実力に歴然とした差があるのなら、どうして家康は豊臣家を滅ぼすのに15年もかかったのか?

しかもこのときの家康は、60歳から75歳。当時の寿命を考慮すると、いつ死んでもおかしくないではないか。

実はこのことを、ぼくはずっと考えていたのです。ですが、家康自身がこのように考えていたとしたら、どうでしょうか。

「オレはもういつ死んでも良いと思っている。もし自分がいなくなっても、秀忠とその家臣たちがいる。家臣たちは、とくに軍事に関して優秀だ。大坂城を落とすことくらいは十分にやれるだろう」。

家康は後継者である秀忠、それに徳川家臣団(とくに家臣団の武力)を信頼していたのではないでしょうか? そう考えれば大坂の陣への見方も、自然に明らかになるでしょう。

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