一 前篇
煙の立ちのぼる鉄板に、刻んだ大蒜(にんにく)をちらし、香ばしいにおいがふわりと広がったかと思うと目にもとまらぬ早業(はやわざ)で、小ぶりの牡蠣をひと掴み投げ入れる。そのとき鉄板からきこえる「じゅわわ」とも「ざざざ」ともつかない音を、ロマン派の詩人ならどのように形容するだろうか。いけない。夢想するひまもなく、牡蠣は溶き卵でまとめられ、いまや黄金色の光を放つ美しいオムレットへと変貌する。
そこまで書き進めたところで、またハルは手を止めた。
書斎の小さな窓から、八月の台中(たいちゅう)のうだるような熱風が吹きこんでくる。けれど、手を止めたのは、そんな亜熱帯の物憂げな気候とはまったく関係がなかった。青いインクを原稿用紙に落とした瞬間から、文字がまるで浜に打ちあげられた小魚のように、生命を失っていく――。
雑誌『黒猫(オーニャオ)』の締切は三日後に迫っているというのに、ハルはまだ記事の冒頭部分すら満足に書けていなかった。広島と東京ですごした二十三年の人生もおよそ順調といえるものではなかったが、一ヶ月前に神戸から船に乗って日本統治下の台湾にわたってきてからというもの、これまでにない困難を感じている。それもこれもすべて編集長の百合川(ゆりかわ)のせいだ!
頭のなかに、昨日、初音町(はつねちょう)の編集部できいた百合川の冷ややかな声が、壊れたレコードのように繰り返し響いている。
――きみには人生の主題というものがないのか? プチブル的凡庸きわまりない退屈な描写の連続で記事を書いたつもりになっているなんてどうかしている。書き直してきて。
思いだすたびに悔しくてたまらなくなってハルは唇を嚙む。あたしがどんな気持ちで家をでたのかぜんぜん知らないくせに。あんたこそ、大金持ちのお嬢さまでしょ!
ここ台中では、百合川琴音(ことね)という筆名よりも、蔡家三姉妹の次女、蔡秀琴(チウァ・シウチン)として知られている。五尺(約一五一センチ)にも到底及ばない身長、女学生といっても通用しそうな童顔におかっぱ頭、赤い頰と小鳥のようなつぶらな瞳。そんな愛くるしい外見に、はじめて会ったときは好感すらいだいたのに、いまではすっかりだまされたとハルは感じている。それでも、心のなかで悪態をつくことはできても、あの射貫くようなまなざしの前では、借りてきた猫のように黙りこんでしまう。幼いころから口喧嘩はもちろん取っ組み合いの喧嘩でも、男にだって負けたことがないのに。