そんな想定外の波乱はありつつも、異郷での暮らしにも少し慣れ、ようやくハルは『黒猫』を取り巻く、この社会の状況がおぼろげながらわかってきた。
 編集補佐として働く玉蘭(ギョックラン)の話によると、本郷(ほんごう)の女子美術学校に留学し、神田(かんだ)の雑誌社に就職した蔡家のご令嬢が、この街に帰ってきて日本語の、それも女性だけの手による文芸誌を発行するという噂が駆けめぐったとき、街のひとは一様に冷淡だったらしい。
 纏足(てんそく)をやめ、日本式の新しい教育を受けた女性たちのことを指す「新女性」あるいは「新女」という言葉は、しばらく前からきかれていたが、地方都市の台中ではまだまだ好奇の的で、雑誌名が台湾語の「モダンガール」を意味する『黒猫』に決まると、さまざまな陰口がきこえてきたという。
 玉蘭は、内地留学帰りの流暢な日本語で、そのひとつひとつをていねいにハルに教えてくれた。
「――モダンガールの雑誌なんて結構じゃないか、自由恋愛のレッスンや男の料理のしかたでも伝授するのか、とか、花嫁修業の代わりに文芸誌の発行を援助するなんて蔡家も酔狂だねえ、とか、ひどいものになると、女だけの雑誌なんて続くものかっていうのもあったんだよ!」
 しかし、そんな呪詛にひるむことなく刊行された『黒猫』創刊号は、蔡家の人脈を通じて宣伝された結果、台中はともかく、新しもの好きが集まる台北(たいぺい)の大稲埕(だいとうてい)や、時代の最先端をゆく女学生たち、内地留学帰りの女性たち、喫茶店や劇場に集まるモダンガールにまでよく売れて、初刷の二千部は即完売、増刷がかかるほどだったそうだ。
 ハルが玉蘭からわたされた『黒猫』創刊号をぱらぱらとめくってみたところ、百合川自身の作品や内地の女性作家が寄稿した随筆が目だっていたが、台湾から内地の美術学校へ留学した女性の滞在日記や台北の女学生による投稿もなかなかおもしろい。驚いたことに、書き手のなかには小学生と思しき文学少女までいた。