良いことばかりではなかった

ところが塞翁が馬。良いことばかりではありません。この年、紀久子さんは、がんを患っていることが分かりました。会社を畳み、自宅を失い、賃貸の新居に引っ越して、人生を仕切り直して、ようやく1年という4月。皮膚科に診察に行った時、ついでに、首元にぷくっとできた、小さな突起のことを尋ねました。町医者はすぐ、総合病院の紹介状を書いてくれました。1週間の検査入院で、耳鼻科から血液内科に回され、最終的に悪性リンパ腫と判明。脇の下、お腹、胸、首と、広がっていました。すぐに抗がん剤治療が始まりました。

治療は28日周期で2日連続です。初回だけ入院しましたが、2回目からは外来で、2日続けて通院します。入院の同意書には、ふつう家族のサインが必要です。ここもシングルが困る点ですが、紀久子さんは「家族はいません、いないんだからしょうがない」と病院に訴え、友人でOKにしてもらいいました。でも入院も通院も、いつも1人で行きました。

ときはちょうどコロナの1年目。まだワクチンもなく、世の中じゅうが静まっていた時期です。家族以外との接触が厳しく制限されていた時期ですから、病院の付き添いを友人にも頼めません。ふらふらになりながらも、紀久子さんは自力で病院に通いました。バスに乗る体力はなく、タクシーで行きました。

大変でしたね?「いいえ。逆に、世の中もみんな沈んでいたから良かった。みんな一緒ね、って思えて」。みんなが元気だったほうが落ち込んだだろうと、振り返ります。1人だけ世の中に取り残されたような孤独感や疎外感はなくて済んだといいます。不幸中の幸いですが、入っていた医療保険で治療費は工面できました。

ただ体力はどんどん落ちました。がん治療外来に通い始めて5カ月目のこと。熱が下がらなくなりました。39度が2日続き、さらに上がって40度台が4日。日々、40度、40度2分、40度3分……と上がっていきます。動けないので食べられません。ふらふらして、部屋の壁に手をつきながら、ようようゴミ出しに行ったほどです。