振り返ると、子どもの頃からずっと相撲と関わってきました。かつては父もプロとして相撲を取りたかったらしいのですが、長男が若くして亡くなり、次男だった父が家を継ぐことになったので、プロ入りは諦めたそうです。だから息子たちにはプロになってほしかったんでしょう。

僕が引退した時、父が「自分の夢を継いでくれてよかった」と言っていたと知って、嬉しかったですね。もしかしたら、そのためにやってきた気がしないでもないかなあ。

 

今まで通りじゃ、ダメだと気付かされて

1997年1月に入門した頃は、体が細かったので、大きくなることが本当に大変でした。どんぶり飯5杯がノルマで、おかずは5、6品。僕専用の丸いテーブルがあって料理が並べられているから、まるで「ひとり中華料理屋」状態です(笑)。食べ終わったら、師匠の付け人をしながら、師匠の横でコンビニの弁当を3つ、4つ食べさせられる。

夜も6時頃になると、「またメシか……」と憂うつに。延々と11時頃まで食べ続けるんですよ。1回の食事で2、3回は吐いてしまうくらいでした。そこまでして詰め込むように食べても、稽古をガンガンしていたからなかなか太れず、逆に痩せてしまうことのほうが多かったですね。

本場所の土俵でファンのみなさまに見てもらうのは1日一番ですが、そのための日々の稽古は、とにかく厳しいものでした。十両に上がった頃は、相撲を50番取るのがノルマで、相手にぶつかって土俵から押し出す「ぶつかり稽古」も50回。

21歳で幕内に上がった頃は、毎日100番は相撲を取っていました。そのうえで、枕元におにぎりでもなんでも、すぐに食べられるものを置いておき、目が覚めたらとにかく口に入れるような生活を送っていました。

僕にとっての大きなターニングポイントは2004年、25歳の時に負った右膝靭帯断裂の大ケガです。それまでは「幕内でいられればいいかな」と、なんとなく相撲を取っていたようなところがありました。横綱、大関を目指すでもないし、お相撲さんとして楽しく生活できていた。何の遊びもなかった青森とは違って、いろんなことを覚えたしね(笑)。

最年少・最軽量の幕内力士としてちょっと騒がれていたところもあったので、「染まっちゃっていた時期」とでも言えばいいのかな。巡業先では師匠の目も届かないから、あちこち遊びに出掛けたりして、兄弟子に「いい加減にしろよ」と忠告されることもありました。