土俵を下りて、今はまったく悔いはないです(安治川親方)

 

若さもあって、調子に乗っていた矢先の大ケガ。その時、「今まで通りじゃ、もうダメだ」と気付かされました。手術すると復帰まで半年かかるので、そうすると番付も三段目くらいまで落ちてしまう。手術しないと決めた以上は、切れたままの靭帯を周りの筋肉で支えるしかない。リハビリにもトレーニングにも行き、体作りを一から始め、鍛え直したんです。

後年、「角界一の業師」とか「ベテランのくせ者」などと言ってもらえていたようですが、このケガのおかげで、立ち合いで先に出す足を変えるとか、相撲だけでなく、日々の生活の動きすべてを、「考える」ようになりました。

同時に、相撲が楽しくなった時期でもあったんですよ。06年11月に新三役に昇進した時は、当時横綱だった朝青龍とよく稽古していました。僕は朝青龍から金星を4つ挙げているのですが、向こうも「この野郎!」と気合いで向かってくるし、よく出稽古もしました。地方場所では、待ち合わせして彼の車に拾ってもらい、一緒に佐渡ヶ嶽部屋に出稽古に行ったりもしました。

 

妻も、僕と一緒に戦ってくれた

もう一つ、大きな出来事があるとすれば、34歳でした結婚でしょうね。満身創痍の状態で、16年5月にアキレス腱を断裂した時は、もし結婚していなかったら部屋から一歩も出られないままになっていたんじゃないか、と思うほどのケガでした。

子どもや家庭の存在がいい切り替えになり、家は家、相撲は相撲と生活にメリハリもつきました。「夫」「父親」としての立場が加わって、人として成長できた気がします。

二女一男と3人の子どもがいますが、当時は長女がよちよち歩きができるようになったばかりで、次女もまだ11ヵ月だったんです。子育てもてんてこまいのなか、僕も歩けない状態なので、どこに行くにも妻が運転する。リハビリ施設も、一緒に20ヵ所は回りました。

少しでも体にいいと聞けば、埼玉県まで薬草風呂に入りに行き、いい鍼治療があれば訪ね、幹細胞再生治療まで受けました。僕はずっと、カーボン製の装具と特別仕様のサポーターをしていたんですが、「サポーターを見直してみては?」と妻が助言してくれて、スポーツ医学に優れ、体格のよい選手の多いアメリカのメーカーに問い合わせてくれました。