ハルには想像することしかできなかったが、かつて母の胸をとらえたであろう、らいてうへの憧憬は、おそらく数年でどこかにいってしまい、妹の小鈴が生まれ、父が京都の芸者に入れ揚げて家に帰らなくなってからは、母の愛はすべて妹に集中することになったようだった。
ハルは、母が自分の名前を呼ぶのを避けていることにはっきりと気づいていた。
――ねえ、小鈴ちゃんを呼んできてちょうだい。
――あなた、また喧嘩したんですって? ちょっとは小鈴ちゃんを見習ったらどうなの。
――小鈴ちゃん、どうしてお姉ちゃんはいつも男の子みたいに泥だらけになって帰ってくるのかしらね。ほんと困ったものだわ。
いつかハルは、自分は母の前では名前を持たない存在なのだと感じるようになった。
愛くるしい、お人形さんのような小鈴とは対照的に、幼いころから背が高く活発だったハルは、およそ女の子らしさとは無縁の道を進んだ。七歳のとき、男子中学生たちの度胸試しにつきあって酒蔵にしのびこんで警察にさんざん絞られ、九歳で母が猛反対するのもきかず、変わり者と評判だった沖縄出身の老人に唐手(からて)の手ほどきを受け、高等小学校に入ってすぐに、大通りで小鈴をからかった中学生たちを叩きのめした。それでも、母にしかられるときだけ、まだ母の関心が自分にも向けられると知ってハルは安心した。