一九三三年、日本統治下の台湾。ある事件により東京の雑誌社をクビになった記者・濱田ハルは、台中名家のお嬢様・百合川琴音のさそいに日本を飛び出し、台湾女性による台湾女性のための文芸誌『黒猫』編集部に転がり込んだ。記事執筆のため台中の町を駈けまわるハルが目にしたものとは――。モダンガールたちが台湾の光と影を描き出す連作小説!
二 前篇
広島本通の中心に豪邸を構える濱田家で、二十世紀になって最初に生まれた女の子に、ハルという名前をつけたのは、父ではなく母だったと、四歳になったころハルは女中のミネにはじめてきかされた。
――あのときは旦那さまも反対されよって、ほんま大変じゃった、とミネはいかにも大ごとのように語るのに、肝腎のその理由についてはかたく口を閉ざしていた。
どうして、夏生まれなのにハルなんじゃろか、といういかにも子どもらしいハルの疑問は、尋常小学校に上がってから近所の悪ガキどもと広大な屋敷でかくれんぼをしていたときに、屋根裏部屋に隠された数冊の雑誌をみつけたことで氷解した。
古代ギリシャの女神のような絵が描かれた『青鞜』という雑誌のページをめくると「原始、女性は太陽であった」という言葉がハルの目に飛びこんできた。そこには鉛筆で傍線が引かれ、母の筆跡で、これからの時代の女性は輝かなければ、という走り書きまで残っていた。いかにも女子高等師範学校卒業の母らしい、きちっとした美しい字。
『青鞜』に掲載された文章は筆名で書かれていたが、親の目を盗んでは大人の雑誌にも目を通していた早熟なハルは、たびたび雑誌を賑わすその平塚らいてうという女性の本名が明(はる)であるということを知っていた。自分の名前の謎がとけた瞬間に訪れたのは、喜びというよりも困惑だった。