一九三三年、日本統治下の台湾。ある事件により東京の雑誌社をクビになった記者・濱田ハルは、台中名家のお嬢様・百合川琴音のさそいに日本を飛び出し、台湾女性による台湾女性のための文芸誌『黒猫』編集部に転がり込んだ。記事執筆のため台中の町を駈けまわるハルが目にしたものとは――。モダンガールたちが台湾の光と影を描き出す連作小説!

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一 後編

 

 柱の八角時計が、ボーンという低い音を六回打ち鳴らして、ハルは外が夕闇に包まれていることに気がついた。

 窓の外、丸い電灯に灯りがともり、街は帰宅を急ぐ給与生活者やこれから夕食にでかけるひとびとで賑わっている。斜め向かいの食堂から漂ってきているのは、ライスカレーのにおいだろうか。

 おなかがぐうと鳴った。気が向いたら都電で銀座(ぎんざ)にでかけて、百貨店や洋食屋に入った、わずか一ヶ月前が大昔に感じられた。

 日本人街である大正町(たいしょうちょう)二丁目、その電灯の形状からスズラン通りとも呼ばれる新盛橋(しんせいばし)通り沿いにある、アールデコ風ファサードが特徴的な店舗建築の二階の四畳間をハルは書斎として利用している。その隣の部屋が寝室で、ハルはおもにその二部屋で暮らしている。より正確には、住まわせてもらっているといったほうがいい。

 この建物の一階はかつて洋食レストランで、二階はその家族が住んでいたらしい。そのレストランが廃業したあと、内地から帰ってきた百合川の住居にと、改築するつもりで蔡家が購入したものだった。しかし、百合川自身は川向こうの初音町のカフェー二階の『黒猫』編集部で寝泊まりするようになったので、改築はされないままになっている。

 そろそろ玉蘭が帰ってくる時間か――。

 そう思った瞬間、一階の引戸ががらがら音をたてて開き、ただいま、という透きとおった大きな声が響いた。それから階段を上がる軽快な足音とともに、玉蘭が書斎に顔をだした。