米軍キャンプで歌っていた頃の悌子さん。右隣のギタリストが夫の齋藤勝さん(写真提供◎悌子さん)

米軍キャンプでジャズを歌う日々

私は1935年に宮古島で生まれました。戦争中は母と兄と3人で台湾に疎開。看護師をしていた姉は沖縄を離れることができず、父も「姉だけを置いていくわけにはいかない」と沖縄に残りました。2人とも、「もし米兵に捕まったらこれを飲んで死のう」と、常に毒薬を携帯していたそうです。

私たちは終戦後、父と姉のいる沖縄に戻り、父の故郷である那覇で再び一緒に暮らし始めました。

私が歌の楽しさに目覚めたのは、戦後、那覇高校に通っている頃。卒業を控えたある日、音楽の先生から「テイちゃん、社会に出たら何がやりたいの?」と聞かれ、「できれば音楽をやりたい」と答えました。

しばらくすると先生から、「内地から米軍キャンプに来ているバンドが、ボーカルを探している。オーディションを受けてみないか」と連絡があって。もちろんジャズなんて歌ったことはありません。

でも勇気を出して、高校時代の思い出の曲――グノーの「アヴェ・マリア」を歌ったら、なぜかOKが出た。仕込めばなんとかなる、と思ったんでしょうね。

キャンプでは、米兵たちからのリクエストに応えて歌わなくてはなりませんから、必死で歌を覚えました。レパートリーは400曲くらいあったんじゃないかしら。リクエストカードにイラストを描いてくれる人もいて、記念に何枚か残してあります。

英語の発音は、『星条旗新聞(スターズ・アンド・ストライプス)』のアメリカ人記者が週に1度、ご自宅で教えてくれました。帰りに奥様の手料理をご馳走になるのが楽しみでねぇ。それまで家で食べていたのとはまったく違うお料理ですから。