「ひとりっ子はワガママ」という脅し

1人で子育てをする自信がない。その不安がいつの間にか、元夫との関係を「やり直したい」から「やり直さなければ」にすり替わっていた。そんな最中、周囲からは「2人目はまだか」と急かされた。

入院するほど悪阻が酷かったのに、長男を預ける先もない私が、容易に2人目に踏み切れるわけもない。いくらそう伝えても、「子どもは授かりものだからどうにかなる」と言われた。「どうにかなる」と無責任に言う人が、いざという時、どうにかしてくれるわけではない。すべてが雑音に聞こえた。頼むから、みんな黙ってくれ。あの頃、私は毎日のようにそう思っていた。

両親もまた、周囲と同じように2人目の催促に余念がなかった。電話をかけてきては「まだか」と問い、二の句のように「ひとりっ子はワガママになるぞ」と私を脅した。同じワガママを言っても、きょうだいがいる子は見過ごされ、ひとりっ子の場合のみ「ほら、あの子はひとりっ子だから」と言われる。

その空気が苦しくて、児童館や公園からどんどん足が遠ざかった。体を動かさねば眠らない長男を連れて、私は連日、海や山に出かけた。人が少なく、どれだけ走り回っても迷惑にならない広さがある大自然。そこだけが、私と長男が息をつける場所だった。

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まだ舌の回らない口で、坊主頭の長男が「かーしゃん(お母さん)」と呼ぶ。よく走る子どもで、走っている間は決して後ろを振り返らなかった。

小さな背中を必死に追いかけながら、私もこんなふうに迷いなく走れたら、と思った。お母さんが絶対に追いかけてきてくれる。そんな自信が彼の中にあることを感じるたび、自分の存在をも肯定してもらえた気持ちになれた。

“「だれかに必要とされるってことは、だれかの希望になるってことだ」”

三浦しをん氏の長編小説『まほろ駅前多田便利軒』(文春文庫)の一節である。あの頃、抗うつ薬以上に私の心を掬い上げてくれた物語は、寂しい音色と優しい音色が混ざり合っていて、どちらか一辺倒ではないことが、私にとって希望だった。