我が子を愛することは恐怖を伴う

物語の主人公は、便利屋を営む多田啓介と、多田の同級生の行天春彦。常識人の多田と破天荒な行天。正反対の2人の掛け合いが楽しく、笑いを誘う場面も多々ある。だが、多田と行天にはそれぞれ重い過去があり、時折その痛みが表にこぼれ出す描写に、何度も自身を重ねた。

“「親に虐待されて死ぬ子どもはいっぱいいるのに、虐待した親を殺す子どもがあんまりいないのは、なんでかな」”

行天が漏らしたこの台詞を、今でも思い出す。なんでかな。なんで私はーー。そう思いかけて、立ち止まる。これでよかったのだ。彼らを殺すのではなく、逃げる選択をした。私にその選択を与えてくれたのもまた、物語だった。

夫との関係にどれほど悩んでいようとも、生活は続く。子どものご飯を作り、オムツを替え、トイレトレーニングをして、外に連れ出し、同時に家事をこなす。

前回のエッセイで綴った通り、この時期の私はうつ病を患っていた。しかし、どんなに「起きたくない」と思っても、日がな一日寝込むことは許されなかった。私が起き上がれずにいると、長男は窓から脱走を図る。時には、癇癪を起こして外ぐつを投げつけられることもあった。

外に行きたい。思いっきり走り回りたい。その欲求はとどまることを知らず、雨の日だろうとお構いなしで外遊びをせがまれた。息子の望みを叶えてやりたい気持ちの裏側で、「この子がいるから休めない」とも思った。

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“「彼は子どもがこわいんです。自分が子どものときに、どれだけ痛めつけられ、傷つけられたかを、ずっと忘れられずにいるひとだから」”

長男を愛おしく思う一方で、私は長男を恐れていた。彼を傷つけてしまうことを、両親と同じ過ちを繰り返してしまうことを、恐れていた。我が子を愛することは、恐怖を伴うものなのだと知った。