与えられなくても、与えられる
「虐待は連鎖する」ーーこの言葉に縛られていたことは、過去のエッセイでも綴った通りである。世間の目は勝手なもので、私の過去を知らなければ肯定されたであろうことさえ、私が虐待サバイバーであると知った途端に、「あの人は生い立ちに問題があるから」と生育環境に集約される。
できたことも、できなかったことも、すべてそこに結びつけられる。息苦しい。生い立ちは選べないのに、勝手に貼り付けられたレッテルを剥がせない。
“「だけど、まだだれかを愛するチャンスはある。与えられなかったものを、今度はちゃんと望んだ形で、おまえは新しくだれかに与えることができるんだ。そのチャンスは残されている」”
与えられなかった人間は、与えることができない。そういった類の言葉に、何度も希望を奪われた。そんな私にとって、多田の言葉は光だった。「与えることができる」。その自信が、何よりほしかった。人より持っているものが少ない私でも、私なりに息子に手渡せるものがある。そう信じなければ、前に進めない。
何をやっても否定され続けた半生だった。私は、私を信じることが、とてつもなく難しい。しかし、本書と出会って以降、私は少しずつ己を“信じたい”と思えるようになった。
物語の終わりに多田がたどり着いた境地を、この当時、必死に握りしめた。
“幸福は再生する”
これまで、何度も壊された。自らも壊した。それでも、再生を繰り返してきたからこそ、目の前にこの子がいる。長男が笑う。私も笑う。とりあえず、それだけでいいのだと思えた。
40歳を過ぎた今でも、絶望に絡め取られそうになることはある。そのたび、おまじないのように私は唱える。「幸福は再生する」と。
家族の形は変わり、私は現在、新たなパートナーと生活を共にしている。長男は今年、高校生になった。未だに自由気ままな彼は、よく笑い、よく話す。歩んできた道のりのすべてを正解だとは思っていない。それでも、私にとっては、次男も含めて、息子たちの笑顔が答えだ。
※引用箇所は全て、三浦しをん氏著作『まほろ駅前多田便利軒』本文より引用しております。